工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

模倣と侮るなかれ、玩具と侮るなかれ  ウィリアムズFW07をめぐる話

2025年01月12日 | 自動車、モータースポーツ

 本ブログでたびたび紹介しております三栄の「GP Car Story」昨年秋の№49号はウィリアムズFW07というマシンで、1979年から1982年序盤を戦ったF1マシンです。既に昨年12月に第50号も出ており、紹介がかなり遅れてしまいましたが、ちょっと懐かしい話も含めて書きたいと思います。

 ウィリアムズチームのオーナーのフランク・ウィリアムズは1960年代後半にレーシングカーの売買などを行っていましたが、1969年シーズンからプライベートチームによるスポット参戦という当時許された手法でF1に参入します。しかし、しばらくは「鳴かず飛ばず」の日々でして、カナダの石油王ウォルター・ウルフがチームに資本参入したこともありました。チームスタッフの給料もろくに支払えない、などと噂されましたが、やがて彼はイギリス経済、それだけでなく世界経済、政治にも影響を及ぼしていたアラブ系、とりわけサウジアラビアの企業をスポンサーに迎え入れます。1978年のことでした。その1978年のF1では、チームロータスが「グラウンド・エフェクトカー」と呼ばれるマシンでグランプリを席巻しました。これは「ウィングカー」とも呼ばれ、車体底面と地面の間に空気の通り道を作り、ダウンフォース(地面を押さえつける力)を強化し、タイヤも地面に押し付けながら、コーナリングスピードを上昇させる効果などがありました。この効果を徹底させるため、車体のサイドから底面のあたりにゴム製スカートをつけ、空気がサイドから出ないよう、効率よく後ろに流すこともしています。

 ウィリアムズFW07というのは、このロータスのマシンを模倣しながら、オリジナルよりも空力特性などで向上を図りました。その結果、1979年のシーズンこそフェラーリに水を開けられたものの、1980年にはブラバムの新鋭・ネルソン・ピケとの戦いを制したアラン・ジョーンズ(豪)がタイトルを獲得しています。翌1981年はピケにタイトルを獲られるも、コンストラクターズタイトルは制しています。1982年も序盤のみ走り、ケケ・ロズベルグのタイトル獲得に結果的には貢献する形となりました。サウジ航空、TAGといったサウジ系スポンサーと、サウジカラーの緑に彩られたマシンは本家ロータスを凌ぐ速さを見せ、他チームがロータスの模倣をしてもうまくいかない中で、グラウンド・エフェクトカーの成功者となりました。アラブのオイルマネーはイギリスのあちこちの企業などに関わっているか、買収したなどと言う話を、1980年にヨーロッパを訪れた亡父から聞かされたものです。サウジ系だけでなく、ブリティッシュ・レイランドも目立つ位置にスポンサーになっていましたが、国営企業の悪しき見本みたいなイメージがどうしてもございます。

 オリジナルの模倣、と書きましたが、それでもインペリアル・カレッジ・オブ・ロンドンにあった風洞を借りて空力特性の向上につとめたとあります。そしてこのマシンに携わっていた人々というのが、その後もウィリアムズと運命を共にしたパトリック・ヘッドはともかく、フランク・ダーニー(多くのチームで活躍し、トヨタF1にも参画)、ニール・オートレイ(後にマクラーレンで活躍)そしてロス・ブラウン(シューマッハとともにフェラーリの黄金時代を作った立役者)と、スタッフはバラバラになりましたが、その後のF1の歴史に名を残した人たちばかりです。本書では、当然こういった人たちへのインタビューから、このマシンがどのように作られ、速さを発揮できたかが解き明かされています。パトリック・ヘッドは「ロータスのマシンを目視でコピーして図面を描いた(!)」と言っていますし、フランク・ダーニーは自らを「風洞オタク」と称していますが、当時珍しかった空力デザインの専門家の力が発揮されたということでもあります(1980年にはウィリアムズは自社で風洞を所有しています)。コンピューターによる動作解析が無い時代に、試行錯誤と手作業でマシンを速くしていった過程を読むのはわくわくする体験でした。そしてこのエンジニアたちが当時まだ20代の若者ばかりであったというのも興味深いです。1977年までは弱小チームゆえに熟練のスタッフがいなかったこともあるでしょうが、うまくピースがはまったのと、彼らに活躍する場を与えたオーナー、フランク・ウィリアムズの成せる業でしょう。その意味では彼は野村克也が言うところの「人を残した」人物かもしれません。ちなみにこの時期のウィリアムズチームには日本人メカニックの「デューイ」こと中矢龍二氏も在籍しています。日本人メカニックはよく働く、と言われていたそうで、本書でも同じ時期にグランプリでメカニックデビューをした津川哲夫氏との対談が載っています。

 また、ドライバーに関してもアラン・ジョーンズのインタビューが載っています。1981年シーズン後に引退すると、故郷オーストラリアで農場経営に就いたということもあり、チャンピオン獲得者の中ではインタビューを読んだ記憶がありませんでしたので、当初はフェラーリからオファーがあった(フェラーリはジル・ビルヌーブを選びます)とか、1982年にはビルヌーブを亡くし、ディディエ・ピローニが重傷を負ったフェラーリからのオファーを断った、という話は初めて知りました(フェラーリには元王者のアンドレッティが乗車)。この時代の「ウィングカー」は時には「乗る人を選ぶ」ような癖もあったようですが、時にはマシンをねじ伏せながら、時には冷静に考え、このマシンをチャンピオンに押し上げていきました。フェラーリが元王者たちにオファーした、というのは1994年のセナ没後にナイジェル・マンセルをウィリアムズチームが引っ張ってきた状況に似ていますが、本人はフェラーリのオファーを断ったことを後悔している、とも言っています。

 引退についても徐々に力をつけてきたターボエンジンのマシンに勝てなくなってきたことや、この時代に表面化し、大きな対立となったFISA(国際自動車スポーツ連盟・モータースポーツの統括を行う国際団体で、後に国際自動車連盟に吸収)とFOCA(F1のチームで構成され、F1の興行を取り仕切った団体)の政争にも嫌気が指したから、と言っています。

 さて、このシリーズと言いますと必ず模型の話も出てくるわけですが、タミヤの1/20ではなく、今回はデラックス・ビッグワンガムのFW07が紹介されています。このブログの読者の中にもこういったシリーズを「昔作った」という方もいらっしゃるでしょう。いわゆる「食玩」のルーツですが、立派なスケールモデルとなっているところがミソで、このFW07もちゃんと1/36のスケールモデルとなっているところが凄いです。今回はカバヤにも取材をしていて、これらの「玩具付き菓子」の開発の裏話も読めます。これらのシリーズはおまけの域を出なかった「エフワンガム」から始まり、「ビッグワンガム」では「模型」として進化もしていきましたが、自動車だけでなく、飛行機、鉄道、艦艇とひととおり乗り物をカバーしていたようで、鉄道模型の世界でも「玩具といっても侮れない」と言われていました。軟質プラのためいわゆるプラモデルのようなスチロール樹脂ではないものの、金型屋さんなどに模型に相当理解のある方がいた、ということで、私も昔艦船のキットを組んだので覚えていましたが、なるほどなあと思わせる話でした。私は覚えていなかったのですが、穴の開いているパーツの穴の部分がきついときには、それを少し広げてはめやすくするための工具のようなパーツも含まれていたということで、子供が扱うものゆえの配慮でしょうが、現代の食玩キットよりも親切なところもありました。それにしてもエフワンガムの箱、リカルド・パトレーゼのシャドウなんて渋い選択だなあ&箱だけでも欲しいなあ。

 実車の話に戻りますと、1982年序盤まで活躍したこのマシンですが、チームにもいろいろな変化がありました。ジョーンズ引退でエースになったカルロス・ロイテマン(アルゼンチン)でしたが、1982年開幕戦直後に引退、帰国してしまいます。政界にもパイプがあり、後に政界進出を果たしたロイテマンでしたが、フォークランド紛争を事前に察知しており、イギリスに本拠を置くウィリアムズチームにいるのはまずい、と判断したからとも言われています。それだけではなく、チームに加入したロズベルグとウマが合わなかったのでは、というチーム関係者の証言もあります。少し後の年の話もしますと、チームのアラブ系スポンサーも徐々に離れており、TAGは1983年からマクラーレンと組みました。いよいよターボエンジンがサーキットを席巻するようになり、それまでフォードの自然吸気V8エンジンを使い続けたウィリアムズが1984年に組んだ相手は、復帰2年目のホンダでした。この頃まではリアウイングにサウジ航空のスポンサーも掲出されています。

 

 

 

 

 

 


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笑ってsorryじゃ済まないのよ

2025年01月08日 | 日記

 今日は工作の話も、飛行機の話も、音楽の話も出てきませんし、基本ネガティブなので、読みたくない人は離れていただいて、もっと楽しい記事を読んでください。

 いつも立ち寄るカフェは、ホテルにも近いので年末年始ともなると外国のお客さんもよく見かけます。正月に買い物を済ませて、カフェに入って甘いものとカプチーノをいただいておりましたら、私の左側に90度の形で交わるように外国人女性(白人)二人がワイングラス片手におしゃべりしていました。これだけならいつも見かける光景です。そこに彼女たちの旦那さんなのか、男性二人が戻ってきました。ここのお店、よくある街のカフェですから、注文はセルフで、座るところも自由なわけですが、男性陣は座ったまま、レジに注文に行く様子も見られません。そのうち、私に背を向けている一人が、何かのスプレー(ヘアスプレーなのか香水なのか分かりませんが)を、いきなり「シューッ」と吹きました。数十センチの距離でこちらは食べ物も飲み物もある状態ですから、かかってしまったら困ったことになります。私がいたことに今気づきました、みたいな感じで、私に背を向けていた女性が私を見て、笑顔で「Sorry」と言ってきました。

 これで済まないのがこちらの方です。「おい、それで謝ったことになると思ってるのか」と言いたいところですが、正月にそんな口をきくのはいけませんと親から教えられておりましたので、まず、彼女を睨みつけました。そして咳払いをひとつして、私は自分のコーヒーと、食べ物の載ったトレーを持ち、隣のテーブルに移りました。

 周囲を確かめずに迷惑をかけたこと、さらには「あ~、ごめーん」みたいな謝り方に、二重に頭に来てしまったこと、それから何も注文しないで座り続けるずうずうしさにも腹が立ち、きちんと態度に表したかったのです。こういう場合ですと「しょうがないな」と苦笑して済ませてしまう方も多いでしょうが、別に彼らが特別なわけでもないわけですから、言わなければいけない、または態度に表さなければいけないときはそのようにすべき、と思っています。苦笑して済ませてしまったら、それくらいのことをしていいんだ、というふうに捉えられてしまいます。

 実はこの「騒動」の少し前に、駅の改札口から地上出口を探していた別の外国人一家に道案内をして、感謝されたばかりでした。正月早々いろいろなことが起きるわけですが、松の内にこの話を書くのもどうかと思い、門松が取れたタイミングで、掲載させていただきます。

 

 

 


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年の瀬に青山詣で

2025年01月05日 | 自動車、モータースポーツ

 少し前の話になりますが、12月には何度かホンダのウェルカムプラザに豚児と出向いておりました。ちょっと珍しい写真もありますのでご紹介します。なお、現在は展示も変わっておりますので、展示車両の予定についてはウェルカムプラザのサイトなどで確認ください。

12月14日、15日には「Honda Racing 2024 Season Finale」というイベントが開催されました。こちらでは二輪、四輪のマシンの展示、選手たちのトークショーなどが開かれてにぎわっておりました。私たちはマシンの展示を見てまいりました。

屋外にはこんな展示が目を引きます。ホンダF1参戦60年を記念した展示です。

レッドブル、フェルスタッペンのマシンですね。終盤、マクラーレンに追い上げられながらもタイトルを守りました。

 

RB・VCARB、角田のマシン。

 

こちらは懐かしいですね。中嶋悟のティレル020。多くの方がカメラを向けており、未だ人気は衰えていませんね。

建物の中にはこちらが・・・。

セナ没後30年ということで、マクラーレンMP4/6です。

セナのレーシングスーツ、ヘルメットもありました。

普段は立ち入ることができない二階にも展示がありました。

2023年コンストラクターズタイトルトロフィーです。

 

こちらは2019年ブラジルGPのチェッカーフラッグ。ホンダのパワーユニットを積んだマシンがブラジルで勝ったのは、1階のマクラーレンがセナの手で優勝した1991年以来でした。2019年のこの日のことは(レース以外でも)個人的に忘れられないです。

 

 

近くのポーラビルでも展示・イベント等がありました。

鈴鹿にもありましたが、1964年に初参戦した際のマシン、RA271。

 

今回は第一期参戦の際の図面の一部が公開され、こちらも観たかったものの一つです。

RA270の総立面図。レース参戦に先立って試作されたマシンです。

 

こちらも珍しく、空冷エンジンのRA302の図面です。

 

ウェルカムプラザでは次の週には毎年恒例の、タイトル獲得マシンが展示されました。

スーパーフォーミュラのチームタイトルを獲得したことを記念した展示です。

 

レッドブルのマシンです。

 

懐かしいマシンも。「ナナハン」ですね。

 

模型の展示もありました。マン島TTレースの光景のようです。

 

タミヤのキットと思われますが、RA273です。美しく作りこまれています。

ホンダ本社の建て替えに伴い、ウェルカムプラザも3月で閉館が決まっております。豚児とのお出かけ先としてもお世話になりました。ありがとうございました。ホンダも日産との統合など、いろいろとメディアを賑わしていますが、ウェルカムプラザがどのようになるのかも含め、気になるところです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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巳年の玩具道楽・・・へびに因んだプレイモービル

2025年01月04日 | 玩具道楽

 恒例になりましたが干支に因んだプレイモービル、竜とかに比べてさすがにへびというのは単体では製品になりえないため少ないのですが、こんなものが手元にありました、ということでご紹介します。

 セットの中に蛇が入っています、ということになりますが、こちら。

ドイツでは2004-2006年にカタログにあったラリーシリーズ・4421オフロードレースカーです。かつてのダカールラリーを意識したようなラインナップが特徴で、大型のトラック、バイク、ヘリコプターなどもありました。

箱の下の方にへびが見えませんか?

コブラともう一種は何でしょうか。いずれにしても砂漠の真ん中で顔を合わせたくない動物です。コブラの方は柔らかい材質で、ちょっと珍しい感触です。

このセット、砂漠を模した大きなベースにヤシの木やサンドチャンネルなどをはめ込み、その上をこの車輛が通れるような作りになっています。

そこにいる動物がヘビにハゲタカにさそりとあっては、少々怖い場所ですね。

カサブランカ、ラバト、マラケシュといかにもな地名の道標が描かれています

本来の主役、ピックアップトラックのようなラリーカーを見ていきましょう。

別売りのユニットを使えぱ、ラジコンカーとしても使えるようになっていました。

前輪のサスペンションが上下に利くように柔らかく作られています。

 

ボンネットを開けるとエンジンも再現されています。

工具類も充実しています。

足元の水筒、なんだか小学生の遠足みたいです。

工具類は後ろにしまうこともできます。

 

ドア横のゼッケンには「ヨーロッパ・アフリカラリー」とあります。

女性ナビゲータが持つ地図です。

フランスを発ってスペインを経由してアフリカ大陸に入っていくようです。

 

お次は「へび繋がり」でこちら。

2006年発売の4224救急バイクです。製品そのものは白バイなどの色替え品ではありますが、ここにもちゃんと「へび」がいます。

へびが巻き付いた杖のマークがそこかしこに入っているかと思います。これは「アスクレピオスの杖」と呼ばれ、西洋では医学の象徴として知られており、実際に医学、医療に関するさまざまな場面で使われるデザインです。

バイクのパニア部分にも入っています。

ライダーの方も見てまいりましょう。

ヘルメット、ウェアなどにも杖にからみつくへびのマークです。できればお世話になりたくないバイクです。

ややこじつけ感もございますが、巳年の玩具道楽でした。日本だけでなく、中国など干支がある国・地域のイラストや置物などを見ますと、顔が可愛らしく描かれているへびも多く、本物とのギャップも感じます。へびというとその昔、中野のサンモールだったかに「蛇屋」さんがあって、広口瓶にへびが入ってうごめいているイメージが強く、今でも思い出します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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2025年 今年もよろしくお願いします

2025年01月03日 | ときどき音楽

 新しい年が明けました。今年もよろしくお願いします。三が日は食べて飲んでの日々で、ブログの更新もしておりませんでした。

 年末のT-SQUAREのライブ、素晴らしい演奏で楽しんできました。まだ配信中ですが、セットリストも公開されています。ネタバレになるのと拙い言葉ではありますが、感想を書いてみたいと思います。

(東京公演の会場となった日本橋三井ホールの入り口にて。両日とも早々に完売でした)

 例年どおり神戸でのライブがあって、東京は12月30、31日の二日間で、二日とも観てまいりました。神戸の初日、二日目は今年還暦を迎えられた元メンバーの則竹裕之さん、須藤満さんをフューチャーした内容で、私は初日の方を配信で観ておりました。則竹裕之さん作曲の「EUROSTAR」、2024年は何度もライブで聴きました。

(ブログでは書かなかったのですが、則竹裕之さんの還暦ライブが目黒のブルースアレイでありました。二枚目の写真はその時の開演前に撮ったものです。手を伸ばせば(伸ばしてないけど)伊東たけしさん、という最前列のこれ以上はない特等席で、配信でもばっちり映っていました)

 

年末ライブに話を戻しますが、メンバーは伊東たけし(SAX,NuRAD)、本田雅人(同)、外園一馬(g)、松本圭司(Key)、田中晋吾(B)、坂東慧(Ds)という構成です。外園さんは神戸の公演をインフルエンザでキャンセル、となりましたので東京公演のみの参加となりました。オープニングは「TRIUMPH」(1995年・WELCOME  TO THE ROSE GARDEN)で、和泉宏隆さん作曲、私も大好きな曲です。みなさん一曲目からビシッと気合入りまくりです。

二曲目は坂東さん作曲の「閃光」で、こちらは比較的最近の曲です。2021年の「FLY! FLY! FLY!」というアルバムのオープニングですね。全般にタイトな印象がある曲ですが、ギターのソロとか、ポップ・インストゥルメンタルのだいご味が味わえます。

次は「RAINY DAY, RAINY HEART」。安藤まさひろさんの曲、懐かしいですね。1993年の「HUMAN」からです。個人的にはとても好きなアルバムの一つでして、この曲に関してはライブで聴くことがあまりなかったので、こうして演奏されたのでとても嬉しいです。

四曲目は「SUNNYSIDE CRUISE」、須藤満さんの曲です。こちらも95年の「WELCOME TO~」の一曲です。日本でも人気ですが韓国ではこの曲がとても人気らしいですね。

続いてはぐっと遡って「Tomorrow's Affair」。1980年の「Rockoon」から、安藤さんの曲です。TBSのドラマの主題曲に使われました。「泣きのギター」と管楽器が絡み合う、聞かせどころが多いバラードです。ご本人もお好きな曲とのことでしたが、外園さんのギター、とても良かったです。ちなみにスクエア、カシオペアともにデビュー間もないころはこうやってテレビドラマの音楽などを担当していたこともありました。

お次は坂東さんの「Chops!」。2016年の「TREASURE HUNTER」というアルバムから。トリッキーな曲の中で坂東さんのドラムが聞かせどころとなっています。このアルバムも個人的に「ハズレ」の曲がなく、またいろいろなテーマ、切り口の曲ばかりで楽しいです。

そして7曲目は「夏の蜃気楼」。1994年の「夏の惑星」から、本田雅人さんの曲です。「冬ですが・・・」と伊東さんはことわっていましたが、冬でもこの曲は素晴らしいです。各楽器のソロパートに聴かせどころが用意されているのも楽しいところです。

今度はぐっと下って「Merverick Moon」です。現時点では「最新アルバム」の「幸せの風」の一曲です。「Moon」と名の付く曲には難曲多めと作曲者の本田さんも言っていますが、この曲もサックスだけでなく他の方も手数が多く大変そう、というのはライブだから分かることです。

テクニカルな曲の後に「Forgotten Saga」(1985年「R・E・S・O・R・T」)です。言わずと知れた「和泉バラード」の名曲も、二人のサックスと松本さんのキーボードという組み合わせに心を動かされます。曲のエンディングに到達する頃には、美味しい料理をもっと味わっていたいというのと同じような感覚になります。

そして「RADIO STAR」(1990年「NATURAL」)に。名曲の多いこのアルバムからこの曲を持ってきたのか、という感じで、ライブでも何度か聴いてはおりますが、その選曲も面白いところです。こちらも各パートに聴かせどころがあります。

ライブもいよいよ終盤戦。「Mystic Island」(2015年「Paradise」)です。アルバムのオープニングナンバーですね。もう10年前のアルバムになるんですね。このアルバムですと「Throgh The Thunderhead」をライブの終盤でよく演奏されていた記憶がありますが「Mystic~」で徐々にこちらの気持ちも盛り上がります。

最後は「TRUTH」(1987年「TRUTH」)です。ここでようやく総立ち、こぶし振ってとなりました。ステージ上の盛り上がりの模様はぜひ配信をご覧いただいて・・・ということで、ここで〆なのですが、当然アンコールの声がかかりまして・・・

アンコール1曲目は「Texas Kid」(1979年「Make Me A Star」)です。それぞれのパートが゛アドリブで思いっきり「暴れられる」曲ですので、こちらも大盛り上がり。皆様、アイデアを駆使した演奏が楽しかったです。ここではキーボードに新メンバーとして加入予定の長谷川雄一さんも登場。松本さんと時には一台のキーボードを「連弾」したり、一人で素敵なソロを聴かせたりと大活躍です。新メンバーについてはギターの亀山修哉さんが神戸の公演で外園さんのピンチヒッターで登場しておりまして、東京では長谷川さんがステージに、となりました。

ここで思い切り「とっちらかって」、「あとは野となれ山となれ」(Ⓒ伊東たけし)なわけですが、最後は「明日への扉」(1993年「HUMAN」)できっちり締めました。ここもギター、キーボードが盛り上げるパートありで、メロディの美しさと共に好きな曲です。F1中継ではアラン・プロストが勝った時のテーマでしたね。

曲目紹介でざっとこんな感じですが、演奏だけでないMCでの伊東さんと本田さんの掛け合いも相変わらず笑います。伊東さんが親指と人差し指をクロスさせて「BTSのメンバーがやってるハートマークなんだよ」と言うと本田さんがすかさず「ここのお客さんBTS知らないから」にはみんな爆笑です(はい、私も詳しくは知りません)。本田さんはお嬢さんがファンらしいですが、新しいものや流行っているものにアンテナを張っている伊東さんの好奇心の強さというのもすごいなと思います。以前何かのインタビューで新しいものが好きだからウインドシンセサイザーに飛びついた、というようなことを話されていましたが、年を取って頭は固くなる一方、どんどん新しいものに目が行かなくなっている私も見習わなくては。本田さんは黄色と黒の縦じま模様のNuRADを持ち込まれており、自身がファンである某球団をイメージして、虎がサックスをくわえた柄のシールまで貼っている念の入れようでしたが、阪神タイガース側から公式グッズとして認めてもらえた、ということで、製品化されるそうです。製品ではユニフォームの背中にある選手名と同じフォントで「MASATO HONDA」の名前も入る、ということでした。その本田さんですが、神戸の公演の後にインフル感染が判明し、熱も出なかったけど悪寒と咳と鼻が・・・ということで検査したらインフルだったということで、伊東さんも少し前に同じような症状だったようで「やたら寒くて鼻が花粉症みたいで」と話していました。そういえば同じ時期に私も「鼻が花粉症みたいなんだよね~。職場が寒くて・・・」だったので、あれは、もしかして!?

さて、新メンバーについてはギター、キーボードのお二人が決まり、8月の「最終オーディション」の形をとったライブでも観ておりましたが、お二人ともまだ大学生ということで、実にフレッシュなお二人です。キーボードの長谷川さんは大晦日に誕生日を迎えられたということで、みなさんから祝福されていましたね。須藤さんや則竹さんも加入当時は学生でしたし、坂東さんも20歳で活動されていましたから、実は「若いバンド」でもあるのです。この二人を迎えて新しいアルバム、ツアーが予定されていますので、楽しみに待ちたいところです。

一方でここまで約3年、サポートとして参加された外園さん、松本さんもここで一旦スクエアとしてはおしまいてす。それもあってかステージではとても熱量のある演奏でした。外園さん「ギターの仕事でスクエアに呼ばれることはないと思っていた。スクエアのギターと言えば不動の方が(安藤さん)いるから」ということで、特別な日々を過ごされていたことでしょう。松本さんも「元メンバー」という立ち位置でもありましたし「もう呼ばれないと思っていた」と以前は話されていましたが、同じくサポートの白井アキトさんともども不可欠な存在になっていたと思います。本田さんもひとまずスクエアでは・・・といった話し方でしたが、サックス二人で一つの曲を分け合うというのが、それぞれの特徴が出て「一粒で二度おいしい」ので、個人的にはとても好きです。今までのサポートの方々も、どこかでスクエアとして演奏される機会があったら・・・と思いました。

今回は選曲の妙とメンバーの熱量が素晴らしく、いつも素晴らしいライブではありますが、特に印象に残るものとなりました。今回は93年~95年あたりのアルバムからのセレクトが多く、アルバム的にはちょうど本田さんが加入した後のスクエアの方向性が固まっていった感じがした頃であるのと、自分がライブに参戦したのがこの時代ということもあって、しばし20代に戻っておりました。私もガキだったけど、いろいろあったなあ。なにせあの頃は「何も知らない両手で無敵の将来を描いた(矢井田瞳さんの「御堂筋PLANET」より)」ような頃ですからね(苦笑)。コロナ前なら「これから年越しだぞ」と意気込む時間に帰宅となったのもここ数年の大晦日ですね。ここ数年、コロナがあったり、スクエアとしてもいろいろ「激動期」ではあったのですが、2025年はまた、新しいスクエアが楽しめそうです。

 

 

 

 

 


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