何故許さないのか?!vs 成り済ましのエゴと欲 2019・3・10
・聖書研究会に参加を止めたので聖書研究会を自身では辞めた積りになっていたが、研究会の組織からの祈り込め?が続く、「お前らが追い出したくせに!」要するに私の席を置いておきながら活動させないという、組織の「数値や成績」にこだわった考え。数を減らさず組織としての成績を維持しておきたいという形でズルく私を利用している。姑息な!聖書研究者のキリストとは反する考えと思考と行動。ウンザリだ。私は組織や中心者のずる賢さに嫌気がさしたと聖書研究会との全ての縁を切っているのに、あんた方がパワハラで私を閉じ込めておきながら何時までも私を利用する其の姑息さ。私はこの組織に組み込まれた時一般社会より狭い小さな社会の組織・束縛を感じた。名誉欲とか成績とか「汚い心が一般より強い」事に気付いていた。キリストの思いと異なる組織という集団のエゴ・欲望
・「何故許さなかった!!」と批難の声が聞こえてきた。この研究会の中心人物や自衛隊出身の組織の中心人物を私は信頼できなかった。信頼できない男が悪さをして、謝りにも来ず・手持ちの菓子でも持ってきて「謝る」のが一般常識だが、信仰の場面では決して「謝る」事はしない。謝られもしないのに信頼していない奴を許す方が甘い。簡単に許したら悪さをしてきた奴は「悪かった・もうヤラナイ」とは思わず、そのまま悪を続けこちらが許して忘れた頃に「「勝ったー」と勝どきの声を上げる。それが今迄の聖書研究者との体験結果だった。だから私は現実に謝ってこない奴らを許さない。宗教者達の狡さにハマってはならない。私は彼等聖書研究者達を信頼していないから。私の聖書研究者達への無垢な信頼を裏切ったのは聖書研究者の中心人物や組織だからだ!。彼らが誤ってくるまで許さない!。
・・・許して欲しかったら行動に現しなよ。その時やっと信頼関係が構築されて許す・忘れたという許しの仲になれるというもので、私は宗教者の本心を信じない。その事を体験させられた。痛い程彼らのエゴと欲を体験させられた。
・私は子供の頃から「神様!キリストさま!」と良く心で話しかけていた。時々その心に返事みたいな声が聞こえたりして、キリストはそんなこと言わないだろうとか?神が???と疑問に思う声中で、母とか父とかの願いだ!などという成りすまし宗教者等のエゴや欲望に変だなー変だなーと思いつつ多くの場合従っていた。でも皆さん!聖書では死んだ人は死んだ時以後は心も考えも肉体と一緒に何もなくなると説いているのです。肉体が死ねば思いも考えも「肉体が腐り土になる」ように「死んだ人の考えも思いも全て無くなる」事を再認識した。そして
・成りすまし人間の多くが、魂の世界を知っている宗教者達だという事を思い知らされた。成り済まし人が10年も前に死んだ「父や母」を借りて、父母に成りすまし父母が願っている事だ!と思わせて私の思いを曲げた。マインドコントロールだ。聖書研究会の組織の数人が未だに私に行っている事が明らかだし、母の所属の創価学会の術と思っていたが、神とキリストに話しかけていた私は、この聖書研究会の男とその妻のなりすましの言葉に、多く左右されていた事に今はっきり気が付いた。聖書の良さを白い仮面として創価学会や仏教徒と同じ過去の死んでしまった人間の考えの成りすましになって、真っ黒い心でマインドコントロールを掛けられていた。白い仮面で黒い心を隠した宗教の恐ろしさ=サタンの技に今更とはいえキリストを説く人たちがこのありさまでは悲しすぎる。
・だから声や心だけで「許せ!」と押し付けてきても行動で表して来なければ、許しもしないし妥協もしないと心で誓った。どんなに組織や強い立場の人物が「エゴや欲望を押し付けてきても」私は妥協しない。私も行動に表し言行一致で頑張ろう。