ももちゃんの面白古代史

ももちゃんが生活科学の目で主に日本古代史解明します。新しい情報いっぱい。例えば日本の縄文時代に製鉄が行われていた根拠など

ガラスのルーツは日本

2017-04-15 04:32:35 | ガラスのルーツは日本・縄文時代のガラス・日本のガラス

ガラスのルーツは日本

「ガラスのルーツは日本」のタイトルで動画をアップ公開したのに、なぜか検索に引っかからない。何処かで何故か誰かに操作されているようで薄気味悪い。非常に薄気味悪い。グーグルとかヤフーでは検索できないなら他の人には当然届かないのだろう。ガラスのルーツで検索したら南極タイの・・等でさえ検索できるのに、ガラスのルーツが検索できないとは「これいかに???」
ネットも金の力でしか動かないのでは貧乏な私の「投稿できる」楽しみさえ奪われてしまうなんて、ネットの価値半減だ!・むなしい。しばらく休みます。 

 


「ピラミット文化のルーツは日本・積石塚古墳」の根拠(3)

2017-04-06 07:23:39 | クフ王・ピラミット・縄文のビーナス・エジプト・モアイ像・ツタンカーメン・ス...

「ピラミット文化のルーツは日本・積石塚古墳」の根拠(3)2017・4・6

・ピラミットのルーツは日本積石塚古墳時代という出土品による仮説に対し、日本からエジプトへはどんな船で航海したかが問題になる。シルクロードの旅では「太陽の船」が出土するエジプトへの旅と関わりがなくなってしまうが。現実にエジプトの「太陽の船」と類似の壁画が日本の珍敷塚古墳から出土している。この事実は渡航には砂漠のラクダではなく「船」が使われた可能性が強い。この疑問解決のため、日本とエジプトの船(太陽の船)の資料・写真をネットで集めたが「太陽の船」出土エジプトや他の国々のピラミット時代の船の写真は集まらない。ただ日本の古墳の壁画と埴輪船の出土がかなり多く存在している。
・ピラミットの壁画の「太陽の船」とどちらが原画か解らない程、日本「福岡・珍敷塚古墳の壁画」と余りにも類似する壁画は不思議だ。日本珍敷塚壁画の「太陽の鳥船」を日本の編年基準に合わせると紀元後300年頃となる、だがピラミットの年代は紀元前2500年頃。だから日本の「太陽の鳥船の壁絵」はエジプトから伝来したという説が当てはまるという訳だ。とはいえ筆者は「生活科学の目で見た日本古代年代」は「非科学的年代編年の思考から年代編年基準が作られている」という主張をしているので、日本の「ヒイロカネ?」とかの古代伝承の「天の鳥船」を当てはめると、日本の鳥船がエジプトまで荒海を蹴立てて航海したと推定する。他にも理由を上げる事ができる。
・また不思議にも他の国ではネット情報では船の古代の壁画とか埴輪の造り物等がない。何故だろうか。縄文時代などに繁栄していたのはエジプトとか日本とか南米のメキシコ程度だったのではないだろうか。だから日本の古墳壁画に多く船が描かれていることは珍しいことのようだ。又九州に舟の絵が多いからとて其処で船という発想が生まれた訳でなく、其処九州に船文化が諏訪や鳥取の鳥浜遺跡等から伝来してきて、九州は太平洋航海の入口だから、船文化が集中地になったと考えられる。
・縄文前期の鳥浜貝塚(福井県三方上中郡若狭町鳥浜)で丸木舟が出土している。縄文時代の遺跡から出土した船は全て一本の木をくり貫いて作られたもので、舟底部からの高さは1m位、これでは外洋航海には適した構造ではない。積載能力も数人と数百キロ程度の荷物しか運搬できなかったと推定されている。鳥浜貝塚からは既に漆塗木製品が出土。漆自体が防水・防湿効果を持つので、船の防水に利用された可能性がある。又三内丸山遺跡ではアスファルトを利用している。全国で140隻以上が発掘され縄文時代の物が8割以上だという。
・鳥浜貝塚出土は丸木舟だが日本では漆が縄文時代前期から使われ、三内丸山遺跡ではアスファルトが使用されていたというから接着剤に使用されていた可能性が強い。ただ縄文前期では未だ構造船には技術が進んではいなかったようだ。いつ頃から構造船になったのか。諏訪湖を渡った船は柴船で、筏風に木材を組み立てて船の形を作り、柴で周りを包み飾っている。両アイデアを合体させれば直ぐにでも航海に出る船は作れそうだ。
・問題は珍敷塚古墳の壁画の時代は紀元後の300年代でエジプトとの差は3000年にもなるが類似の壁画の出土が不思議になる。第一日本の古墳時代が何故紀元後300年頃以後なのか?。生活科学の目で見たら、仁徳天皇陵は500m近くの世界一巨大古墳で他日本には400m級の古墳が5基程存在。仁徳天皇陵築造は延べ何万人かの人が働いて10年?もかかるとかの話。その上多くの古墳に葺石やハニワが並ぶので、古墳・埴輪を作る作業に多大な人力を必要とする。
・日本には200m以上の古墳は確か100基程?出土。50mから100m程度の古墳は軒並みというほどの数量。古墳時代とされた紀元300年頃から平安時代の700年頃までのわずか400年程度の期間・時間で、人力のみの時代にこれだけの数の古墳を築造できるはずがない。(古墳についての数値は自身の記憶で未確認のため正確ではない)
・筆者は赤い土器時代の終末頃(弥生時代後期=紀元0年前後)には既に長野の森将軍塚(100m)群馬の八幡塚古墳等100m級の古墳が築造されていたと推定している。何故なら古墳も「ローマは一日にして成らず」で、初期は5m程度の小円古墳から技術を次第に研究し習得し巨大前方後円墳を築造するまでになったと推定している。勿論それは古墳出土品等の統計からも言えることだ。日本の古墳のルーツは意外と北信の積石塚古墳辺りから始まり帆立貝式古墳など文化勢力のシンボルの一つと考えられ、巨大化し埴輪など飾り、武力より経済力や技術の強さなどを強調し合い競い合っていたと推定出来る。
・だから積石塚古墳の初期は紀元前3000年頃ではないだろうかと推定する。新しく古墳という概念が生まれたこの頃は、まだ縄文土器を作っている地域≒縄文勢力の強い地域も存在していた。
・赤い土器について言えば縄文中期には縄文土器の中に赤く塗られた土器も存在しているので、赤い土器文化は縄文土器文化を凌駕する文化だったので赤い土器をシンボルの一つにした新勢力が生まれたと推定できる。縄文土器勢力と戦った新文化勢力が赤い土器文化勢力であり、だから赤い色は勝利の色として中国にその思想が現在までも伝わっていると推定できる。
・さてこの推定時代を「太陽の鳥船」に当ると、エジプトのピラミットの年代は日本のようには忖度(そんたく)した時代を編年基準として使っていないと推定できるから大凡正確だろう。という事は日本の福岡の珍敷塚の「(太陽)天の鳥船」壁画の古墳の時代は紀元前3000年頃と推定してよいのではないか?。
・ピラミットの太陽の船は日本の九州の珍敷塚古墳にモチーフは同一の絵が書かれているが、日本の他の壁画や埴輪の船は、ほとんどが同じ舳先と船尾が高く伸ばした構造の船の形で、古墳出土の船型埴輪も同様な形だ。埴輪の場合の時代設定は、古墳に埴輪が飾られたルーツは松本弘法山古墳の墳頂に飾られた底穿孔土器とそれに対峙した松本・・古墳の黒色土器壷や鳥型埴輪ではないかと推定しているが、底穿孔土器は茨城県等にルーツがあって更なる検討が必要で推定の一つだ。
・そして伊那地域の王塚古墳?に飾られた埴輪が縄文時代の土器の材質に使われた雲母が含まれている。雲母を胎土に持つ土製品で有名なのは「縄文のビーナス土偶」で縄文のビーナス土偶は紀元前3000年頃の時代設定がされている。ただ縄文のビーナス出土地域の諏訪・茅野等には古墳は少なく埴輪もほとんど出土が無いから、実時代的には検討の必要があるが、雲母が土器胎土に使われなくなった時代は同時に松本・塩尻地域の黒色土器の時代でもあり、底穿孔壷埴輪の時代の到来時代でもある。
・さて話がそれてしまった。 日本では青森三内丸山遺跡出土品は沖縄等の南方の物の出土があるので日本海側では縄文時代紀元前2000年頃は、北陸から沖縄等の航海が行われていた、北前船のルーツは少なくも北陸の巨木文化の縄文後期の紀元前2000年頃には始まっていたことは確認できる。一方太平洋側では古代から「天駆る船」と呼ばれる天駆けるような早い軽い凄い船が活躍していたことが伝承で残っている。「天駈る船」基地は静岡辺り?。しかしその船の壁画などは太平洋側では不明。ただ古代に北前船が沖縄辺りから航海に出た時、嵐などでイースター島や更にエジプト等に流れ付いた可能性が十分考えられる。
・一方で船文化は縄文の諏訪湖にもルーツの本拠地があったと考えられるのは柴船のお舟祭りが行われているが時代は?紀元前4000年位のこと?。
・以上①鳥取の鳥浜貝塚遺跡で縄文時代前期の丸木舟が出土している。また紀元前2000年代には北前船的交易船が日本では活躍していた事②古墳の壁画の船とエジプトの太陽の船と類似していること③船の材料の巨木文化が紀元前2000年には存在していた事④更に船のルーツと推定できる筏や丸木船は海の無い内陸の諏訪湖周辺でも筏的な構造船が作られている⑤舟板の接着剤や防腐剤の漆やアスファルトは日本では縄文前期から使用している事など。以上、エジプトの「太陽の船」のルーツは日本にあることは多くの出土品から実証できたと考えます。


ピラミット文化のルーツは日本積石塚古墳の根拠(2)

2017-04-01 11:17:28 | クフ王・ピラミット・縄文のビーナス・エジプト・モアイ像・ツタンカーメン・ス...

ピラミット文化のルーツは日本積石塚古墳の根拠(2)2017・4・1

桜が寒そうに1分咲き、窓から可憐な花が寒空に消え入りそう。「ピラミット文化のルーツは日本積石塚古墳の根拠」このテーマ投稿が4・1日のエイプリルフールと一緒になってしまった。前作の「ピラミットクフ王と縄文のビーナス」の動画の反応は全く0という状態。人は真実を見たくないのかな?それより今がお金が少し自由になって、豪華クルーズや豪華バスの旅などで、殿様気分で満喫できれば生きて来た甲斐があると、過去の歴史などに関心がないという生き方の方が利口かもね!?。金のゆとりは羨ましい次第だけれど、でも私は好きな超古代史解明を眠気と記憶力の減退と戦いながら楽しんでいる。でもまさか世界史の古代にまで足を踏み込むつもりはなかったが、「非科学的な古代史の上に人間の生活があったとは考えない」ので、やはり人類の歴史の上で真実が知りたい。一人も見てくれる人がいない動画でも、集中できて作っている間は天国だ。今回の課題は決してエープリルフールではない。人類が最初から大きな前方後円墳を作る技術を神から与えられたのではない。だからその初期は世界のどこかにあったはず。そのルーツが日本の縄文時代にあった!。日本縄文時代より文化が進んだ国や原始文化を私は知らない。土器焼成技術と初期的鉱工業技術(製鉄や製銅技術)で創意工夫を重ね開発して世界の縄文文化を牽引してきた証拠が、幾つも出土品として出土している。
・日本に縄文超古代に鉱工業技術があったはずがない。ヨーロッパや中国の技術が入ってくるまで日本は・日本でしか出土しないという現実があるのに「銅鐸や三角縁神獣鏡や古墳や多くの文化技術が伝来技術を基に真似をして改善して発展してきた」と、根拠を確認せず(根拠は改竄を疑問視されている日本書紀)伝来説を主張し、納得してきた考古学会・教育学会だが、人類の創意工夫は殆ど古墳等の出土品や遺跡等の状況と合わせた自然科学の「神からの賜物」で解明できることを私は知った。

・最近は、多くの古代文化が科学技術と知らずに「神の賜物」として信仰の場で、科学技術を発展・開発してきたのは日本の縄文文化だったことを痛感している。さて問題のエジプト文化と日本縄文文化の実時代の差の、日本の時代設定の問題を出土品でどう解明できるか。この問題で現在の日本の編年基準を使わず、筆者が行っている生活科学の目で見た実時代の編年基準を適用し、エジプト文化の実時代とを比較検討してみた。

積石塚と葺石塚

・積石塚古墳を検討する以前に傍目には同一築造と見えるが現実には、積石塚と葺石塚の2種類がある。瓦礫等の石のみで築造する文字通り石を積んだ積石塚と、土台に土で古墳を作り表面に石を葺いて積石塚のように見せた古墳を葺石塚という。石を用いるのは礫石が入手し易く,凍結期にも造り易いなどの理由によるものと思われる。世界各地に分布するが,特に北ヨーロッパバルト海周辺からロシアシベリアモンゴルに多い。また中国,朝鮮の石器時代から積石塚まがいの葺石古墳が多く存在する。筆者も最初はこの区別を着けずに動画を作っていたが、エジプトピラミットは積石塚のようだ。日本では土で基礎を築造し、後に石を葺いた葺石塚古墳も多く存在する。日本では,香川県石清尾山,長崎県対馬,長野県須坂市大室の古墳群などの積石塚がよく知られている。

一方で葺石とは主として古墳時代の墳墓の外部施設で、古墳の墳丘斜面などに河原石や礫石を積んだり、貼りつけるように葺いたものを言い、「葺き石」の表記をする。古墳時代の日本の大型墳墓は、墳丘の斜面などにびっしりと葺石が施され、遠目には積石塚のように見える。(復元された葺石で覆われた五色塚古墳神戸市)の後円部写真は最後の最後の写真)

その祖形は弥生時代墳丘墓弥生墳丘墓)に認められる。前期古墳と中期古墳に多いが、後期は葺石をともなわない古墳が大多数となると書かれていた。

・葺石は、二段ないし三段に築成された古墳の墳丘斜面のほか、円墳の墳裾を全周するものやくびれ部に施されるもの等種々あり、その箇所は一定しない。規模の大きな古墳に葺石を施設したケースが多い。また、関東地方以北には規模とは関係なく葺石古墳は少ない。

◎実時代推定と縄文のビーナスとクフ王の時代の推定との違いは?

・一応基準としてエジプト・クフ王のピラミットを紀元前2800年頃とネットに書かれているので採用。日本の場合の積石塚の時代は紀元後5世紀頃ー8世紀頃に時代設定されているので、両者の3000年という差について考察した。

・話変わるがエジプトの場合のクフ王の像の材質は象牙製という。筆者は土製と推定していたので今までの推定を変更の必要あり検討の必要が出てきた。だがピラミットは積石塚という基準で、日本の積石塚の時代設定と比較考察してみた。

・日本積石塚からの出土品

埴輪・須恵器・二重口縁壷・土師器・緑釉陶器・珠文鏡・内行花文鏡・馬具・甲冑・鉄農工具・(鍬・斧・鎌・ヤリカンナ)鉄製(紡錘車・鉾・鈴付馬具・剣・刀・刀子)銅製(剣・ゾク・筒型銅器・馬具・剣)玉類・壁玉製石釧(腕輪)・銀メッキ帯金具・貝釧・ガラス・金環・馬蹄形周堀・横式石室・合掌型石室・埴輪出土積石塚は少ない。

・石釧とか紡錘車や緑釉陶器(鉛釉薬は低温で溶解)さらに鎌や斧など農工具が出土するのは統計上では初期の古墳から出土し、更に貝釧などの腕輪のシンボルだった時代は赤い土器の時代だった。
・積石塚古墳に埴輪が飾られるのは積石塚古墳勢力の衰退頃で、埴輪が飾られた積石塚又は葺石塚が出土するのは西日本の場合が多く、埴輪の伴う石塚は多くが葺石塚と言えそうだ。動画で埴輪のある積石塚古墳として扱った長野の森将軍塚古墳も群馬の八幡塚古墳も葺石塚のようで、厳密には積石塚ではないようだ。積石塚古墳の文化勢力が優勢の時、外観は積石塚様で簡単に構築でき頑丈な葺石塚工法を考案し100m級の前方後円墳(森将軍塚や八幡塚古墳)に葺石を使った事が推定できるが未調査。東日本の積石塚は埴輪以前の赤い土器初期時代の頃と推定。
・また積石塚古墳の最も初期は鉄釧を作った製鉄勢力者たちの墳墓が積石塚と推定しているのだが、積石塚古墳の初期頃に長野から松本地域に偵察隊を送った積石塚勢力が、木曽馬に出会って馬具文化を生んだと推定している。松本中山地域に存在するその積石塚古墳は馬具と縄文中期後半の土器を共伴出土している。数基づつの群集積石塚が点々と山辺地域等松本市内に幾つか馬具を副葬しながら存在している。そして馬具と縄文土器と交わった勢力文化は松本地域で他の諏訪勢力と戦闘を繰り広げていた時代で縄文後期前半の紀元前2000年代ではないかと推定?。
・また筒形銅器も出土品の中では初期頃と言えるが西日本での積石塚の副葬品で、松本江馬と積石塚文化が出会った時代か少し後年に該当か?。筒形銅器は西日本に多く出土している。

・また緑釉土器が山口のジーコンポ積石塚古墳群で出土しているが、縄文中期後半に松本・塩尻地域で初期の緑釉陶器が出土する。松本地域では赤い土器が出現した頃と推定でき、縄文後期初期頃と考えられるので紀元前2000年頃に筆者は時代設定する。

・出土品はネットで・大室古墳群500基の積石塚(大室古墳群)・岩瀬尾山群・(香川・高松市)・9基・八丁鎧塚古墳上八町)・ジーコンボ古墳天神(山口)・大塚古墳(山形市山辺町)・(群馬)保渡田古墳群・(甲府)「横根・桜井積石塚古墳群小泉大塚越遺跡3号(玉村町飯倉)群馬二子山古墳・愛知の出土品を資料として使った。

・日本の積石塚古墳の推定実時代

上記の出土品から見ると各種の出土品があるが、中で日本一の積石塚が集中する大室古墳群などはほとんど出土品がない。単純に言えばまだ古墳に遺物を副葬する習慣が生まれたばかりの最古級古墳と推定できる。積石塚古墳群出土品は日本文化の古い時代にシンボルだったのだろう古い出土品だ。問題は古い古墳だが、松本地域の積石塚の推定では縄文中期後半に時代が当てはまる(紀元前2000年頃)として、とてもエジプトクフ王の時代(紀元前2700年頃)には辿り着けない。しかし積石塚古墳文化が始まったのは松本ではなく、鉄釧文化が生まれた長野地域の時代はもっと早い時代だったと考えられる。
・松本の積石塚と縄文中期後半の土器の出土が紀元前2000年として、長野地域で鉄釧が開発研究され文化勢力に育ったのは、長野県諏訪地域が世界一繁栄してい時代の縄文中期で、その時代は既に赤い土器文化は始まっていた。鉄釧・赤い土器文化は北信から埼玉・群馬・東京・山梨・静岡等関東一円に分布している。紀元前3000年頃には積石塚古墳築造勢力が遠く海を渡ってエジプトの地にたどり着いていた可能性は十分考えられる。
・一方で積石塚古墳文化が生まれた間もない頃に中国・韓国等から中近東を経てエジプトにたどり着いていたとしても時代的つじつまが合う。

◎合掌型石室+積石塚出土品

・さてピラミットの中に合掌型石室が存在し、不思議の一つに数えられている。ところが日本の積石塚古墳が密集出土する大室古墳群の中にこの合掌型石室が50基程存在する。合掌型石室からの出土品は皆無に等しいが、その一基からベンガラ・反刃鏃は珍しい鉄鏃形式・剣菱形杏葉・環状雲珠・鞍金具・辻金具・鉸具などの馬具、片刃鏃・反刃鏃・鉄 鏃(鉄製の矢じり)、ガラス玉が出土した。(ネット情報)
・積石塚古墳の中でも特異な合掌型屋根を持つ石室が北信の積石塚古墳に馬具が多く出土していることから、松本で馬と遭遇した積石塚古墳文化は馬という交通手段を得てスピードを持って移動できたから、文化の伝播は早かったことが推定できる。ただ馬は生き物だから人間が活用するには牧を作って馬を育てる必要があるから、馬の文化の発展も簡単ではなかったと推定できる。
・さて以上の情報から日本の縄文時代に発展した積石塚古墳文化がエジプトにもたらされたことが出土品等から十分に実証できたと思う。「エジプトピラミットのルーツは縄文のビーナス文化」という説の大凡の説明が付いたといえるが、もう一つ新事実があった。そして実証材料として加えることができるのは「太陽の船」の新事実だ。今回は長くなったから次回にピラミットに残された太陽の船の壁画と日本の類似点を検討しますので乞うご期待。動画「ピラミットのルーツは日本積石塚」を見て下さい。