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<span style="font-size:24px;"><strong>瓦模様で世界史を俯瞰 </strong> </span>2020・9・22  ももちゃんの古代史 百瀬

2020-09-22 09:36:49 | パワハラ・女性問題
瓦模様で世界史を俯瞰  2020・9・22  ももちゃんの古代史 百瀬

秦の始皇帝時代の瓦模様と信濃国分寺瓦模様・・以下の写真の瓦模様は何処か類似している。紀元前3世紀の秦時代の瓦模様が、日本銅鐸後期の大型化時代の銅鐸耳飾りの渦巻き模様や瓦に類似模様が両国に存在している。どちらかの文化が何方かに伝来して行った先で瓦文化が繁栄した事を意味している。新時代の瓦の蕨手模様は日本では大型化した銅鐸の耳の模様や銅鐸模様、そして写真無しだが木製盾の模様に多く使われている。更に蕨手文の初期で整理される以前の蕨手模様と推定される瓦模様は信濃国分寺から出土している。又秦の瓦の蓮華文は信濃土井の入り窯出土瓦模様の変形、大村廃寺や信濃の小さな廃寺から出土瓦模様に近い模様が出土している。これ等は佐渡国分寺瓦模様と類似している。

・以上の瓦模様の羅列から瓦のルーツ等俯瞰すると、日本中部信州の国分寺の古い廃寺出土瓦模様が敗退等で中国へ渡航する途上の佐渡国分寺で出土することから、瓦建築の技術の中国への中継地だったことが推定できる。
・だから秦の始皇帝が日本に蓬莱山があると言って、日本にあこがれ家来を渡航させたが、家来が始皇帝の下に帰れた情報はない。始皇帝が日本文化の埴輪を飾った巨大100m近い文化にあこがれて、マネをして巨大な地下の墳墓を築造させたことも明らかに推定できる。始皇帝の時代には日本の仏教建築と瓦文化も中国に伝来して行っているのは瓦模様の新旧と類似と言う点で十分説明できた。写真がサイズ等上手く選べない!

流廃寺・福島 甲斐の寺院 佐渡国分寺瓦 松本市大村廃寺 信濃国分寺周辺の小廃寺出土

蕨手文・ 銅鐸の耳 初期蕨手文瓦
続は後日

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