聖書を学ぶ 26日
・先日東日本大震災の体験を書いてから何故か時々年配のおばさんが思い出される。「津波に足をすくわれ(足元から30㎝位の波で立っていられなくなるそうだ)溺れかけていた時、母が大切にしていた植木(椿だったか?)が流れてきてやっと捕まり、命は助かり母のお陰と思った。でも今誰も居なくなった(知人は皆死んでしまった!)これからどうしたら良いのか解らない!」と呆然としていた。あれから7年、彼女は今どうしているのだろうか。未だ聖書を勉強していなかった私に答えは出来なかった。そして延々と長い間、先祖を大切に祀ってきた人々が何故このような悲しみに出会ってしまったのか・・大きな疑問が湧いた。
・長い間、先祖のお墓を黙々と守ってきた人々、そしてあの時の少年の泣き続ける涙と同じ、多くの人々の涙と嘆きが痛かった。そして未だ回答の聖句に行きついていない。でも少し学んできた範囲では「生きたかったおばさんと、その母への愛と生命の力に精霊が働いたのだろうかと自己流だが思う。死者である彼女の母親が天から助けた(死者に思考はない)訳ではない。
・問題は死んだ人の魂が働いたと考える日本の思考は仏教そのもの。しかしこの死者の思いが死後も残っていて働くという考えは、今、生きている人を過去の思い出・過去の世界に引きずり込む。結果今を生きられない。発展が無い。私自身、未来志向が出来ず参っていた。だが聖書は違った思考を教えている。
・人の死後は「人間は神が塵で作られたのだから、人間は死んだら当然チリに戻る」と聖書では教えている。肉体が死んだ後は肉体が腐るように脳(頭=思考の元)も腐る。その人の霊だけが生きていて何かを考える事は有り得ない考えだ。だが仏教では死人は死後も思考を持ち、今の人を支配できるという考えで、死者を祭り食物など備える。死人を呼び出すという「いたこ」という職業があるほどだ。仏教や占いなどで多く使われているようだ。
・この仏教的考えは私を精神的恐怖に陥らせ、人生長期間「今も未来を志向できない恐怖」に陥れていた。要するに覇気のない思考の人生だった。マインドコントロールを受けている感じの「繰り返しばかり」の感覚、仏教が人の過去を見る恐怖に追いかけられていた。しかし聖書は「神は人を益する神」とあり、聖書と仏教的思考の違いに今迄の苦痛から救われたと思った。仏教的思考だと今後大災害を経験した人々の中で又津波の恐怖が増してしまう可能性を、恐怖に思う。過去を懐古しても今後の未来は何も始まらない。未来は過去の中には無い事だ、輝かしい未来がある。TV番組等では懐古番組が多くなっている昨今だが、仏教思考から今私達は大急ぎで「未来志向」に切り替える必要を痛感しています。