ももちゃんの面白古代史

ももちゃんが生活科学の目で主に日本古代史解明します。新しい情報いっぱい。例えば日本の縄文時代に製鉄が行われていた根拠など

パワハラ・女性問題…聖書を学ぶ

2018-04-26 23:41:09 | パワハラ・女性問題

女性問題・・・聖書を学ぶ

今日本でいや世界中でセクハラ問題・パワハラ問題が火を噴いているが、力の弱者の女性に対する力の男性が、言葉のみに関わらず各場面で力をチラつかせて嫌がらせを行い、女性は嫌と言えず泣き寝入り・・我慢の状態が各地で起こっている。

・この問題でかねてから私の中でも色々あって考えるところが多かった。しかし聖書の中では女性の立場・尊厳は守られている事を知り聖書への信頼感が増しているのだが、聖書では女性はあくまでも男性の半身であり、主導権(頭)は男性だとするのも自然界の中で女性が感情強い傾向がある事から、理知的な男性に主導権がある事の方が、物事や世間が安定するのは確かと言える。

・今まで仏教的には女性は穢れた者とされ、尊厳が与えられていない感が強かった。そのため今迄私≒女が生きる中で多くの違和感があったが、最近は大分緩和されたと考えていた。それでも女性の地位はまだ定まっていない。アジア圏では多くの地域・国が仏教的だから、女性の地位はかなり低い物と実感している。

・女性が物事に対し感情に訴えるのではなく、理性的に物事を判断できるようになれば、女性の地位が上がるのかも知れない。

・古代史を研究した中で垣間見た事実?は仏教の成立自体女性蔑視から始まっていると思える。要するに古事記・日本書紀では父なる伊弉諾尊がアマギハラで禊した時(この時は未だ女性の地位は対等位だったようだ)三貴神(男神2人+天照大神女神)が生まれている。その後の日本史は三貴神の繰り広げる三角関係で女神を追いかけ、天岩戸に天照大神を閉じ込め、故に仏教の出現となって、三貴神の物語は幕を閉じている。…。天照大神≒女性は男の力に屈して負けたのだから、敗者に女性の尊厳や人権など与えられなかっただろう。これが古代出土品で実証できるのですから面白いですよ。そのうち本を出版したいと思う程です。


相撲道と女人禁制(2)4:20

2018-04-20 00:14:11 | 相撲・女人禁制

相撲道と女人禁制(2)・・聖書を学ぶ       415

・先日書き忘れたので追加です。相撲開始の初期は土俵上はあくまでも国の支配権・部族をかけての力を代表した戦いだから、勝敗に女の感情を差し挟まない公平で無私の神に懸けての審判をしたかったために、女人禁制にする必要があった事を感じる。要するに勝敗の審判に有無を言いがち感情的な女性の参加を禁止した経緯が推定できる。部族同士の戦いだから戦争と言う、血と命の多くの欠損を避けての、代表者としての力の戦士=力士の戦いとしたことだろう。

・しかし仏教は逆に女の感情を利用して物理的利益を得てご利益主義を追求している。仏僧が坊主なのも利用している仏像等の偶像は女性(日本の天照大神)であって、仏僧が仕えているのは天照大神や卑弥呼など。銅鏡も女性系鏡であり、日本の神道的天皇家の系統の信仰対象は未確認だが女性系の様な?・・そして面白い日本古代出土品を思い出す。縄文のビーナス土偶と仮面の女王土偶。おおよそ6000年前頃の土偶とされ、その頃から蛇モチーフの土器や模様が多くなり、不思議なことに聖書のアダムとイブの楽園追放の立役者が蛇で、同じ6000年前頃と言う話だ。


相撲道と女人禁制・聖書を学ぶ

2018-04-13 00:26:27 | 相撲・女人禁制

相撲道と女人禁制・・聖書を学ぶ  4・13
・日本国技の相撲が土俵に女性の登壇を禁止しているという問題が世間をにぎわしている。日本には昔から女人禁止は多く存在している。一番身近なことでは仏教は女人禁制だった。しかし長野県の善光寺は日本の原始仏教の元祖とも言われているが善光寺は女性住職が最高位の存在だから仏教も本来は女人禁止ではなかった可能性も考えられる。
・相撲の最初は諏訪大社の神事に相撲が存在している事から、相撲は日本最古の公認スポーツだったようだ。おそらく諏訪上社神と下社神が戦ったのが始まりだった可能性が強い。推定ではこの地域の支配権を決めるような戦いを相撲力士に代理させて戦った。そして諏訪大社は日本最古の信仰の残された神社で諏訪地域は縄文中期は世界一遺跡の多さで知られ、この時代世界最大都市の中心地だった。
・問題は神聖とされる土俵に女性が上がるのは禁制という、男女平等の時代に問題とされる。そもそも聖書の創世記ではアダムの補佐役として女性イブが作られた。禁断の命の木の果実を龍=蛇の策略にかかり、女性イブはアダムという夫がいながら蛇(サタン)の甘言に迷い、後アダムとイブは楽園を追われ地上(地獄)に落とされた。女性が最初に竜=サタンに騙され、それを容認してしまった男性アダムの関係性も問題だが、日本にも同等な古事記の物語・日本神話が存在する。
・日本の場合は最初はアダム(日本式には伊弉諾尊)より女神の伊弉諾尊は活発だったようで、イブに当るイザナミノ尊が男神に結婚を申し込み、問題児が生まれた。男神の伊弉諾尊から結婚申し込みをしたら良い子が生まれた(良い国造が行われた)ので、以後結婚の申し込みは男性からするようになったそうだ。その後女神伊弉冉の尊は天界を落とされたのか不明だが、海の大王と結婚し、女神・伊弉冉尊を迎えに行った男神・伊弉諾尊は海の大王の国の繁栄の様子を見て逃げ帰った。その時禊として水を被る聖書で言う洗礼を行っている。
・洋の東西共女性の多情が問題となり楽園を失ってしまった。原因は物質優先・性優先の蛇(サタン)の甘言に乗った女性だった。女性は感情が強い性情を持つ。この感情が曲者で我が子なら神の掟も律法もお構いなく無視し、又は無許可で、どんな悪事を働いても我が子を救助する、又は逆に我が愛する子供(夫)を助けるため、どんな残忍なことも敵に対し行う、鬼女にも簡単に変身する。
・洋の東西を問わず女性は魔物に変身を簡単に行うので、男性の持つ義とか公平とか言う規律や冷静さを必要とした、熟考すると女性の与えられた性癖の(妬み・恨みなどマイナス思考)故に女性は男性の補佐役・穢れた者という形で認識されたと思える。神(光)の秩序を破壊するのも女性(闇)の関りが強い為のようで、女性の地位が一段低められてしまった所以だろうと想像した。だから相撲でも仕来たり=慣習対今の男女平等という事との争いという事だが、今再考する必要があるのかも知れない。
・その点聖書では女性の人格をかなりはっきり認めている。仏教は場合によっては女性の人格さえ否定する勢いがあるので、私は聖書の女性への扱いを高く評価している。一市民の存在で‥ちょっと傲慢な事を書いてしまった。


身代金=キリストの無罪の血・あがない・聖書を学ぶ

2018-04-09 01:24:07 | キリスト・あがない・印鑑・血判状

身代金=キリストの身体の血(あがない)     46

・血の血判状(契約=約束)は日本では江戸時代には行われていたようだ。日本古代史を見ると焼物への印鑑等の出土は遺跡からしばしばあり、諏訪大社の神宝に鹿の角の印鑑が存在する(おそらく最古?縄文時代?)その後、松本市の遺跡や上田市の遺跡などで○○私印と言われる陶器等の印鑑が出土している。

・印鑑を押すという文化は相当古い考えのようだ。江戸時代は赤穂浪士の様に血判状も使われたから、血による約束が命を懸けた最高の約束となる。

・その約束を神様に対し血で贖ったのがキリストという事なのだろうか?(以後検証無しの私の考えには?を付けます)人類の始めの時、最初の人間のアダムとイブは、神の命令に従わず「無視しただけでなく、あろうことかイブはサタンの挑発に乗ってしまった」のだから、その時失った「楽園と永遠の命」とは人間にとって最も貴重な物だった。その時失った「楽園と永遠の命」を、キリストは私たち人類の罪の代替えとして無罪なのに命を(処刑で流した血)掛けて取り戻して下さった訳だから、私たち人類はキリストに感謝以外お礼の仕様がない事になる。聖書では感謝だけでは・口先だけでは通用しないとも言っている。行動が伴わない感謝ではハルマゲドンという人類の危機の時には通用しないのも当然だ。要するに狭き門だ。最近は人類の危機は戦争の危機や天候上の危機など、多くの異変等から示されているという。大津波等もそうだろう。

・しかし助かる道はある事も聖書には書かれている。その狭き門は「叩けよさらば開かれん」と聖書は言う。聖書には多くの生活の指針になる聖句が書かれている。狭き門でも開かれる方法がある事も書かれているので光が射している事も書かれているので、将来への希望につながる。聖句から私は生活の上でも多くの勇気を与えられている。聖書はこういった人生のアドバイス・指針を多く示しています。難解な書物で逆に解釈してしまう点も多いけれど、ひとまずは読んでみることをお勧めです。


裏切り・・聖書に学ぶ

2018-04-06 03:30:26 | 聖書・ハルマゲドン・東日本大震災・

裏切り・・聖書に学ぶ   4・5

・たけし軍団の分裂で裏切り問題が浮上した。裏切り問題で世界的に有名な話は聖書の中の「キリストを裏切り、師のキリストを敵に僅か30銀で売り、無実の師キリストに対し残酷な処刑を受けさせたという大裏切り者の弟子ユダ」の話が脳裏に浮かぶ。
・何故、師のキリストをユダは裏切ったのか。ユダは僅かな金をキリストの命を代償として手に入れたが、この重大な過ちを犯した「ユダの心情」を今までの私は注目していた。でもユダの悪を決して見本としてはいけないという教訓として自分の中に明記する事以外に、悪いユダの思考・行為に他人の私が囚われる必要はないと聖書は教えている。(人生の時間の無駄使い・ユダがキリストを裏切った心・気持には金への愛や自分がキリストより優位に立ちたかったのだろう等と推定できる)
・この聖書の考えは重要で<無駄なことに思い煩うなと聖句にある>、私は長い人生クヨクヨと過去の事に囚われてきた。それに日本人の思考の基礎を占めている仏教の悪い点は、過去の本人ばかりでなく先祖の行為までしつっこく詮索する。だが今聖書に書かれた「裏切りの当事者にならない工夫=思考や行動」が最重要だと気付いた最近です。
・私は人生殆どを日本に残された遺跡や遺物という物から「生活科学の目で見た古代史」という観点で「日本の古代史」を研究してきた。しかしウソや裏切りの多い古代史はもう三の次だ。ただ聖書に東洋史は書かれていない。しかし聖書に書かれた「精神的人生がキズ付かずに済む対処法思考」にはウソが無いように思える。もっと早く勉強すべきだった、でも遅くはないと・・・頑張ります。
・仏教の特徴は過去の栄光をもう一度‥という思考の中で、幻影的仮の世界を繁栄させようとする教えや呪術が長年本当に長い間、続けられてきた。しかしその結果が東日本大震災や阪神淡路大震災など引き起こしている。
・では聖書の記録はどうかというと確かに人間の欲・エゴ・金や物崇拝などが原因で戦争や多くの事件が起こっているが、聖書に書かれた神の律法を誠実に行動していればそのような問題は起こらない。平和も楽園も神は与えて下さっていると断言している。
・そして人間の長い歴史の中で平和だったことが有るだろうか、地球のどこかで何時も戦争や紛争が起こっている。人間の力・思考だけでは楽園の招来は難しいとまで聖書には書かれている。事実人間が神を無視するようになって以来、長い間戦争や飢饉等続いている。本来あった地上の楽園はいつ来るのか?。
・神が最初に作られた人類の最初の人アダムとイブの神への反抗=神の言葉に逆らい「禁断の木の実」を食べたという事。その人類全体が引き継いだ不完全さという重い罪もキリストの贖いという犠牲の上に、許されるという事だ。ただ神に信仰を示さない人・神に愛を示さない人は論外だろうと私は思うけれど。