懺悔(ざんげ)と土下座して謝る…聖書を学ぶ 5・6
・聖書は多くの面で人の心を軽くする自言葉が書かれている。ただ聖書を3回目の通読に入っているのだが、聖書には互いに愛し合いなさい(心の問題・肉体的にではない)とは書かれているが、謝るという言葉が殆どない。日本人の心情としては人に謝るということはお互い信頼し合う条件のように思っていた。
・しかし聖書を教えてくれる人や学んでいる人たちと接していて、殆どの人は直接に謝ることをしないことで、奇妙に思っていた。
・其処で聖書に「謝る」という言葉を探したが、通読の中では未だ見つけ出せない。宗派によっては「牧師に懺悔する」とは聞くが・・当事者同士の日本流に謝るとは異なる。
・聖書は本来神と人との関係が書かれていて、人と人の関係は多くは書かれていないが、逸話や例え話として人とキリストとの心の例え話が多いが、人が罪を犯したら罰=死だから、・・。加害者も被害者も主役ではない。
・例えば交通事故で事故加害者と事故を貰った被害者となった場合、日本では土下座して謝る加害者と許す被害者となるのだが、聖書では??未だ私はこの点納得していない。聖書では許せ!ゆるせ!とある。そして人は誰も不完全に生まれているから許し合いなさいという訳だろう。
・また神に自分の罪を祈り反省すれば神は許して下さるから、加害者は被害者の苦しみは余り気にせず気楽に談笑している。そんな加害者を見ると悲しみや悔しさや時には憎しみまで浮かんでくる。加害者は我知らずという顔で生きられるが、被害者は場合によっては、大きな心の傷はトラウマと言う繰り返しが現実に起こり悩まねばいけない。
・でも心穏やかに生きるには聖書流に、許して愛して悪をせず、キリストに倣って、罪のないキリストは人類を罪から解放して下さったのだもの。