変化を受け入れることと経緯を大切にすること。バランスとアンバランスの境界線。仕事と趣味と社会と個人。
あいつとおいらはジョージとレニー




暗いニュースが多い、と嘆くこと数多。
憂鬱な外交、許されべからず事件、無残な事故、戦争にテロ、災害に纏わる人災、
薄汚い金流、既得権益に関するムダ、新しい分野での狡猾さ、格差の拡大。。。
そして、それらの対処対応のまずさ。
教育問題、裁判制度の問題、専門家と庶民の意識の乖離、庶民の間でも認識の
相違が顕在化。宗教、民族、イデオロギー、歴史に伝統に文化。経済に地域に
自然環境。エネルギーに食料に資源。
それぞれの原因とプロセス、構造的なものから感情的なものまで。

キリが無い。

おいらにだって、それぞれに見解はある。
恐らくは極めて幼稚なものや、極端に走ったもの、それなりに練れたもの、大衆
の最大公約数的なものから、異端的極論まで、それぞれなんだと思う。
更に、おいらの成長や置かれた環境の変遷等で、それらの見解は変わって行く
宿命を持つ。

皆が皆、そうなんだ、多分。

ここで見解の一つ一つを紐解いて行くことは、止めておく。
異論反論/擁護論同調論を戦わせるのは、顔の見える場所で膝を突き合わせて、
ということにしたい。

じゃ、何を記録するのかってことだけども、本質的には全ての問題には、共通した
原因がある気がしていて(少なくとも1つの要素として)、それが何であるかという
こと。

突き詰めると、人間の『社会性』に対する疑問。
人は社会を構成する。
一人では誰も生きていけない。
しかしながら、人は社会に適合できる生き物なのだろうか。局所的狭義的な分野
では可能だろうし、そんな社会(組織と言い換えてもいいかもしれない)に属する
ことなく、生きている人はいまい。たとえ斜に構えていようとも。
しかし、それらの社会同士の連携となると難しいようだ。第三者的には同類項に
見える者同士が、より一層強く反発するという側面も面白いのだが、要は、差異を
受け入れたり認めたりすることが、本質的に苦手な生き物なのだろう。

苦手でも良かったんだ、長らくは。
前世紀に爆発的に増えた人口。否応無く人々の接触が増大する。もとより異端を
嫌い、敢て異端を創出することで多数派の団結を固めて来た人類の知恵。
通用しなくなっている。
この星は、これだけの人間を賄えるだけの余力を持っていないのではないか。
人の英知は前提を覆せるのか。

おいらのような庶民。
何ができるか。
せめて謙虚であろう。
本当に譲れないこと、そしてその理由をよく考えることにしよう。

それだけで随分と良くなるさ、きっと。

次の世代に対するおいら達の責任。
我等の世代を越えて行け、と自信をもって言う為の準備。
果たしているか、できているか。

なわけねぇだろ。

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