皆川博子著『猫舌男爵』は、表題作のほか、『水葬祭』『オムレツ少年の儀式』『睡蓮』『太陽馬』収録の幻想小説集。
『猫舌男爵』は実に奇妙な小説だ。自称日本通のヤン・ジェロムスキが訳した針々尾奈美子(ジェロムスキはハリガヴォ・ナミコと訳している)著『猫下男爵』の全訳を巡る喜劇であるが、針々尾奈美子本人は一度も登場せず、『猫下男爵』とは如何なる小説なのかもわからないまま、ジェロムスキと彼の周辺の人々の会話や手紙、メールによって物語が展開していく。
物語は、ジェロムスキによる訳者あとがきから始まるのだが、これがイライラするほどの悪文なのである。
無駄にひらがな語・カタカナ語が多く、それだけでも読みにくいのに、構成が滅茶苦茶で何が言いたいのかまるで分らない。思い込みが激しく、多弁だが支離滅裂、本人にしかわからない連想につぐ連想の畳み掛けで、針々尾奈美子について語っていたはずが、いつの間にか山田風太郎(ヤマダ・フタロと訳されている)への熱愛の吐露に横滑りし、第二次世界大戦に話題が移り、己の日本語力を誇ったと思ったら、ヨーロッパの拷問法について薀蓄を垂れ、その後、日本史に着眼が転じ、何故か恩師コナルスキが吉原で買春していたことを暴露したのち、日本語の難解さについて熱く語り出したかと思えば、訳の分からないまま尻切れトンボに〆られているのである。
ジェロムスキに『猫舌男爵』を贈られた一人、ヴィニェウィツキ博士に言わせれば「君の欠点は、論旨が明快を書くことだ。大前提、小前提、而して結論、と論ずべきであるのに、君ときたら、大前提をたてたとたんに、連想に導かれた別のことに言及し、さらに連想が飛び、小前提をたてることを忘れ、連想した事象を新たな大前提とし、辛うじて小前提をたてるや、その連想に走り、さらに連想に走り、あたかも、錯綜した迷路を嬉々として走り回るに似て、突然、棒高跳びで一気に隔壁を越え出口に至るがごとく、何らかの論理の整合性もなく結論を提示する」のである。文筆業で生きていくつもりなら、指摘された点について、心から反省していただきたい。
一つ一つのテーマに対するジェロムスキの見解もまた的外れで、読み手を一層の混乱に陥れるのであるが、本人にはその自覚がなく、ヴィニェウィツキ博士とコナルスキ教授の二人の恩師から指摘を受けても、一向に動じず反論のために熱弁をふるう (これがまた、何を言っているのかわからない)。
そんな態度から、コナルスキ教授からは「君は、まず、我が国語の習熟が必要なようだ」とこき下ろされ、こんな本のあとがきに名前を出されるのは、「甚だ迷惑、由々しき営業妨害」とまで罵られてしまう始末なのである。
『猫舌男爵』はこんな風に関わってしまった人々をことごとく混乱に陥れるのであるが、縺れた毛糸が唐突にほぐれたような鮮やかな展開で、唐突に人々に本人が望んでいたのとは違った形の幸福を与える。
ジェロムスキ自身には何の進歩もないが、皆が幸福になったので、彼もまた幸福だ。『猫舌男爵』の評価が芳しくなくても、片思いの相手が自分の友達と結婚しても幸福だ。針々尾奈美子のことなど最早どうでも良いらしく、散々迷惑をかけたコナルスキ先生に図々しくも山田風太郎の翻訳を頼み(自分で翻訳する気はないのか?)、山田風太郎を読破し、山田風太郎みたいに虚無的で痛快な小説を書くことを夢見ている。この人は、見たいようにしか見えず、聞きたいようにしか聞けない人なので、一生一人でいるのが良いだろう。打たれ強さが羨ましい。
なお、針々尾奈美子の消息については、千街晶之・日下三蔵の二名(ジェロムスキは彼らを自分のファンだと思っている)のメールのやり取りから明らかにされている。日本かぶれの異国人の頓珍漢な日本語りで終了させない丁寧さが皆川博子らしい。
『水葬祭』『オムレツ少年の儀式』『睡蓮』『太陽馬』は、皆川博子らしい端正で陰鬱な暗黒メルヘン。これらの美しい作品を書いたのと同じ人が、ジェロムスキの酷過ぎる悪文を生み出したのだと思うと、改めてその力量に目を見張る思いである。
『猫舌男爵』は実に奇妙な小説だ。自称日本通のヤン・ジェロムスキが訳した針々尾奈美子(ジェロムスキはハリガヴォ・ナミコと訳している)著『猫下男爵』の全訳を巡る喜劇であるが、針々尾奈美子本人は一度も登場せず、『猫下男爵』とは如何なる小説なのかもわからないまま、ジェロムスキと彼の周辺の人々の会話や手紙、メールによって物語が展開していく。
物語は、ジェロムスキによる訳者あとがきから始まるのだが、これがイライラするほどの悪文なのである。
無駄にひらがな語・カタカナ語が多く、それだけでも読みにくいのに、構成が滅茶苦茶で何が言いたいのかまるで分らない。思い込みが激しく、多弁だが支離滅裂、本人にしかわからない連想につぐ連想の畳み掛けで、針々尾奈美子について語っていたはずが、いつの間にか山田風太郎(ヤマダ・フタロと訳されている)への熱愛の吐露に横滑りし、第二次世界大戦に話題が移り、己の日本語力を誇ったと思ったら、ヨーロッパの拷問法について薀蓄を垂れ、その後、日本史に着眼が転じ、何故か恩師コナルスキが吉原で買春していたことを暴露したのち、日本語の難解さについて熱く語り出したかと思えば、訳の分からないまま尻切れトンボに〆られているのである。
ジェロムスキに『猫舌男爵』を贈られた一人、ヴィニェウィツキ博士に言わせれば「君の欠点は、論旨が明快を書くことだ。大前提、小前提、而して結論、と論ずべきであるのに、君ときたら、大前提をたてたとたんに、連想に導かれた別のことに言及し、さらに連想が飛び、小前提をたてることを忘れ、連想した事象を新たな大前提とし、辛うじて小前提をたてるや、その連想に走り、さらに連想に走り、あたかも、錯綜した迷路を嬉々として走り回るに似て、突然、棒高跳びで一気に隔壁を越え出口に至るがごとく、何らかの論理の整合性もなく結論を提示する」のである。文筆業で生きていくつもりなら、指摘された点について、心から反省していただきたい。
一つ一つのテーマに対するジェロムスキの見解もまた的外れで、読み手を一層の混乱に陥れるのであるが、本人にはその自覚がなく、ヴィニェウィツキ博士とコナルスキ教授の二人の恩師から指摘を受けても、一向に動じず反論のために熱弁をふるう (これがまた、何を言っているのかわからない)。
そんな態度から、コナルスキ教授からは「君は、まず、我が国語の習熟が必要なようだ」とこき下ろされ、こんな本のあとがきに名前を出されるのは、「甚だ迷惑、由々しき営業妨害」とまで罵られてしまう始末なのである。
『猫舌男爵』はこんな風に関わってしまった人々をことごとく混乱に陥れるのであるが、縺れた毛糸が唐突にほぐれたような鮮やかな展開で、唐突に人々に本人が望んでいたのとは違った形の幸福を与える。
ジェロムスキ自身には何の進歩もないが、皆が幸福になったので、彼もまた幸福だ。『猫舌男爵』の評価が芳しくなくても、片思いの相手が自分の友達と結婚しても幸福だ。針々尾奈美子のことなど最早どうでも良いらしく、散々迷惑をかけたコナルスキ先生に図々しくも山田風太郎の翻訳を頼み(自分で翻訳する気はないのか?)、山田風太郎を読破し、山田風太郎みたいに虚無的で痛快な小説を書くことを夢見ている。この人は、見たいようにしか見えず、聞きたいようにしか聞けない人なので、一生一人でいるのが良いだろう。打たれ強さが羨ましい。
なお、針々尾奈美子の消息については、千街晶之・日下三蔵の二名(ジェロムスキは彼らを自分のファンだと思っている)のメールのやり取りから明らかにされている。日本かぶれの異国人の頓珍漢な日本語りで終了させない丁寧さが皆川博子らしい。
『水葬祭』『オムレツ少年の儀式』『睡蓮』『太陽馬』は、皆川博子らしい端正で陰鬱な暗黒メルヘン。これらの美しい作品を書いたのと同じ人が、ジェロムスキの酷過ぎる悪文を生み出したのだと思うと、改めてその力量に目を見張る思いである。