ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

マイノリティ・リポート:「犯罪のない世界」は実現可能か

2007年08月26日 | 映画♪
スピルバーグの映画はどうも性に合わないようで、こうすればお客さんは喜ぶんだろ的な演出がどうも我慢できない。そんな中で数少ないもう一度見てみたいスピルバーグ作品の1つがこれ「マイノリティ・レポート」。トム・クルーズは相変わらずトム・クルーズだし、ストーリーもまぁ、ある程度読めてしまうしというところではあるのだけれど、まぁ、何となくまとまっている感じが○。




【ストーリー】

2054年のワシントンD.C.。殺人予知システムのおかげで、殺人事件の存在しない社会。ところが犯罪予防局の犯罪取締チームの主任、ジョン・アンダートン(トム・クルーズ)が、システムにより殺人事件の第一容疑者に挙げられてしまう。彼は自分が事件を起こすことになる36時間後までに、真実を暴かねばならなくなった。ライバルのダニー・ウィットワー(コリン・ファレル)率いる元部下たちの執拗な追跡をかわしながら、都市の探知網をかいくぐって逃げるアンダートン。そして彼は、殺人予知システムを考案したアイリス・ハイネマン博士(ロイス・スミス)から、冤罪のケースがあり得ることを知る。プリコグと呼ばれる予知能力者3人のビジョンが一致しない時、少数報告の方は棄却されてしまうのだ。アンダートンはプリコグの女性アガサ(サマンサ・モートン)を連れ出そうとするが…

【レビュー】

殺人予知システムのおかげで殺人事件が90%減少したとして、果たしてこのシステムによって予防的に犯罪者(正確にはまだ犯罪を犯してない)を拘束することは正しい処置なのか。おそらく多くの人はやはり批判的な意見だろう。実際、映画でも、「人は未来を選択できる」というメッセージをキーに、システムの不完全性から廃止されたということになっている。

しかしでは人権的な配慮なども考慮しつつ、その効果を活かすために、犯罪予防局が事件発生の直前に予防的な「一時的な」拘束を行う(あくまでも逮捕ではなく頭を冷やすための保護といったくらい)ということだとどうだろう。衝動的な殺人についてはいったん頭を冷やす期間が生じるため直接的な効果があるだろうし、殺人予知システムそのものの有効性が維持されれば抑止的な効果も期待できる。こうなると意外と判断は分かれるのではないか。

こうなると結局のところ、このシステムそのものを好意的に受け止めるか批判的にとるかという「見方」次第だろう。

その上でこういうシステムを許容できるかと問われれば、NO!と答える。

犯罪を含め人のもつ「負」の要素、「死」や「破壊」「狂気」といった部分について、それをコントロールしきれる、あるいはコントロールすれば「負」の要素は排除できるという発想、それがそもそも間違いではないか。

かっての近代的な思想感であれば、人間は理性的な存在であり、「負」の要素は「野蛮」の象徴であり駆逐されるべき(改宗されるべき)対象であったかもしれないが、現実はそうではない。フロイトの見出した「無意識」がそうであるように、解明されえない「闇」の部分があり、あるいは「構造主義」が見出したようにそうした要素を含めた全体こそが自然な人間の姿であり、どうやら「理性的」だけではありえないのではないか。
とすると、そもそもそうした自然な姿を否定し、全てをコントロールしうるという発想こそが、モダニズムの延長であり、人間の傲慢さそのものによって生み出された考え方といえるだろう。

そういった意味で、こうした考え方を許容できるところにまず違和感を感じてしまう。

映画の本筋から離れてしまうが、例えばもともと荒地であった公園を整備し誰もが安全なエリアにしようということ、監視を行い怪しい人物をそのエリアや学校に近づくことを禁止しようとすること、あるいは坂東眞砂子の子猫殺しに対する過剰な反応など、いずれもが「負」の要素を排除することが「正しい」あるいは排除できるという考え方に基づいている。

そうではなくそもそも世界とは(人間とは)常に「死」や「狂気」や「負の要素」といった危険ととも在るものであり、そうした中で(排除ではなく引き受けるものとして)生きていかなければならないのだという発想こそが必要なのだと思う。そういう意味でこのシステムが象徴している考え方が許容できない。

と、この映画をみててもう1つ感じたことが。

プリコグの見た断片的な映像の束からアンダートンが必要な情報を引き出すわけだけれど、そのときの映像の処理の仕方がなんともiPhoneのIFチックで、やはりこういうところのセンスというのは日本人とは違うと思う。

基本的には欧米人の方が理屈っぽいのだろうが、日本人がこういったIFをつくるとすると、(家電製品のリモコンが象徴的なように)合理的・正しい形ではあるのだろうが結果的に使い勝手が悪くなっている気がする。

これに対しこの映画では、利用者が次から次に体を使って情報の束を引き出しそこから検索し、なければ次の束へとどんどん利用者が検索できるようになっている。実際に利用している「人」にとってどういうIFがいいのか、「人」はどうやって検索していくのかをよく知っているのだろう。

【評価】
総合:★★★☆☆
ストーリー:★★★☆☆
映像はさすがスピルバーグです:★★★★☆

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