どういう文脈でこの発言が出たのか知らないが、「競争は悪だとしてきたが、社会に出ると競争社会で子供が落差に戸惑う。こういう今までの教育は、ニートなどの予備軍の『大量生産』に手を貸しているのではないか」という中山文科相の発言はちゃんと問題を認識しているのだろうかと、疑うような発言だ。確かに、「競争は悪だ」として運動会で手を繋いで皆で並んでゴールするなんてのは、どうかしてるとしか思えないが、「教育現場での競争の重要性を強調」するというのは問題を単純化しすぎているのではないか。
「競争は悪とする教育がニート助長」 中山文科相語る (朝日新聞) - goo ニュース
競争を排除するというのは明らかに現実を否定した考えであることには違いないが、「ゆとり教育」が求められた背景にあったものが、1つの切り口に過ぎない「偏差値」による競争が、過度に行き過ぎたためであったはずだ。だとしたら、中山文科相のいう「教育現場での競争」とは何をさすのか。単にテストの点数というのであれば、単なる「ゆとり教育」に対する反動以外のなにものでもない。
むしろ今求められているのは「考える力」と「多様な価値観」だったのではないか。「多様な価値観」というのは単純にいろいろな考え方があるといったものではない。偏差値による競争があり、脚の早い奴と遅い奴がいて、将棋の上手い奴がいて、誰もが認めるきれいな絵をかける奴がいて独自の絵をかける奴もいる。世界には様々な価値観・軸が存在しそれぞれの軸で競争が存在するということだ。全てにおいてパーフェクトな人間でもない限り、得意不得意な分野を持っており、だからこそ他者を認め、共存できるというものではないだろうか。
公文俊平さんの「情報社会学序説」ではないが、既に所謂知的エリートが社会をリードしていける時代ではなく、ある面では先鋭的オタク層が世界を開く時代なのだ。
またそもそも「ニート」の増加の主要因が競争を排除したこれまでの教育だったのかどうかというのは、根本的に問い直さなければならない。
例えばそれまでの競争(=「偏差値」)で頑張ってきた世代がリストラされている様子は、何に対して頑張ればいいのか、その気力を失わさせる要因にはならなかったか。圧倒的な情報量や専門化が進んだ世界の中で、自分達が既に世界から疎外された存在だと感じていたからではなかったのか。道徳や主義・思想といったものが崩壊し、明るい拝金主義が進んだ結果、まともに働くことに意味を喪失したからではないのか。豊かな生活の中で無理に自分を殺してまで働く必然性がなくなってしまったからではないのか―。考えられる、要因は数多ある。教育現場のせいにしてしまうというのは、あまりにも単純化した思考ではないか。
我々はマスを対象とした様々な政策が既に実行力を失いつつあるということを知っている。今回の件も、中山文科相に知恵付けしたのが文科省の官僚だとしたら、もう一度その問題認識自体を問い直した方がいいのではないだろうか。既に世界は彼らの考えているより速く、全く違う形に動いているのだから。
![](http://images-jp.amazon.com/images/P/475710135X.09.MZZZZZZZ.jpg)
情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる|NTT出版ライブラリーレゾナント
「競争は悪とする教育がニート助長」 中山文科相語る (朝日新聞) - goo ニュース
競争を排除するというのは明らかに現実を否定した考えであることには違いないが、「ゆとり教育」が求められた背景にあったものが、1つの切り口に過ぎない「偏差値」による競争が、過度に行き過ぎたためであったはずだ。だとしたら、中山文科相のいう「教育現場での競争」とは何をさすのか。単にテストの点数というのであれば、単なる「ゆとり教育」に対する反動以外のなにものでもない。
むしろ今求められているのは「考える力」と「多様な価値観」だったのではないか。「多様な価値観」というのは単純にいろいろな考え方があるといったものではない。偏差値による競争があり、脚の早い奴と遅い奴がいて、将棋の上手い奴がいて、誰もが認めるきれいな絵をかける奴がいて独自の絵をかける奴もいる。世界には様々な価値観・軸が存在しそれぞれの軸で競争が存在するということだ。全てにおいてパーフェクトな人間でもない限り、得意不得意な分野を持っており、だからこそ他者を認め、共存できるというものではないだろうか。
公文俊平さんの「情報社会学序説」ではないが、既に所謂知的エリートが社会をリードしていける時代ではなく、ある面では先鋭的オタク層が世界を開く時代なのだ。
またそもそも「ニート」の増加の主要因が競争を排除したこれまでの教育だったのかどうかというのは、根本的に問い直さなければならない。
例えばそれまでの競争(=「偏差値」)で頑張ってきた世代がリストラされている様子は、何に対して頑張ればいいのか、その気力を失わさせる要因にはならなかったか。圧倒的な情報量や専門化が進んだ世界の中で、自分達が既に世界から疎外された存在だと感じていたからではなかったのか。道徳や主義・思想といったものが崩壊し、明るい拝金主義が進んだ結果、まともに働くことに意味を喪失したからではないのか。豊かな生活の中で無理に自分を殺してまで働く必然性がなくなってしまったからではないのか―。考えられる、要因は数多ある。教育現場のせいにしてしまうというのは、あまりにも単純化した思考ではないか。
我々はマスを対象とした様々な政策が既に実行力を失いつつあるということを知っている。今回の件も、中山文科相に知恵付けしたのが文科省の官僚だとしたら、もう一度その問題認識自体を問い直した方がいいのではないだろうか。既に世界は彼らの考えているより速く、全く違う形に動いているのだから。
![](http://images-jp.amazon.com/images/P/475710135X.09.MZZZZZZZ.jpg)
情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる|NTT出版ライブラリーレゾナント
ニートがニートである原因は、やはり現実逃避です。将来に対してものすごい不安があるんですよ。一億総中流から、勝ち組や負け組といった言葉が出てくるように二極化が進行している社会において、いかに社会保障を整備するかが鍵を握っていると思いますね。
それは貴重なご意見ですね。
ということは、「負け組」になるかもしれないという不安、もしくは「勝ち組」になるにはここではないという気持ちがニートでありつづける理由なんでしょうかね?
前提:
労働はお金またはそれに相当するモノにより半永久的に貯めることができる。
命題:
1. Idle mouthである者に対し、彼が属するcommunityが彼のことを「働かずに飯を食う怠け者」喚ばわりするのは誤り。∵彼が飯を食うために必要な労働は、すでに彼の親たちによってなされているため。
2. Idle mouthである者に対し、彼を産み出したもの(作品中では「神」とされている)が彼のことを「働かずに飯を食う怠け者」喚ばわりするのは正しい。∵彼に働いてもらうために彼を産み出したにもかかわらず、彼はそれをしようとしないため。
ニートの排除に「国の労働力や経済力低下を防ぐ」を挙げるのは、突きつめると1.の立場になるでしょう。いくら労働力が減るといっても、日本がニートの影響だけにより、明日突然に世界レベルの債務国に陥るなどということはあり得ないはずです。一方、SGさんの抱えるような将来不安は、2.に該当すると私は見ています。「神」と具体的に書くのが嫌なら、「なぜ自分はこの世に生まれてきたのか」「生き方の拠り所」と言い代えてもよいでしょう。これは時に国全体の考え方をも変えてしまうことがあります。だいぶ前のNewsweekでしたが、クリントン政権時代の米国は「倫理」「論理性」が生き方に影響していたそうです。それが例の不倫事件でぶち壊しになり、人々は「宗教」に行先を変えた結果共和党政権になったという論調でした。日本では、一時期若者に新興宗教が流行ったのがオウム事件などで一瞬のうちに廃れ、次の拠り所を模索しようとしているのではないのでしょうか。
Sylvie and Bruno (Concluded)はLewis Carrollの全集なら間違いなく出ているとは思いますが... この作品、翻訳すると楽しめません(苦笑)。読む気があるならオリジナルで読んで欲しいところです。