ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

「オールド・ボーイ」 ―"敵"の見えなくなった世界

2004年10月24日 | 読書
カンヌ映画祭グランプリを受賞した韓国映画「オールド・ボーイ」がいよいよ来月、日本でも公開になる。最近はどのサイトを見ても「冬ソナ」を初めとした韓国ドラマブームなわけだけど、個人的には「冬ソナ」、「猟奇的な彼女」、「ボイス」いずれもNGなので、本当なら韓国ものというだけで見る気はないのだけれど、なんといってもこの映画、原作が土屋ガロン、いくら原作と映画が別物とはいえ、見ないわけにはいかないだろう。

土屋ガロンなんて言っても知らない人も多いだろうけど、僕くらいの年代だと、「狩撫麻礼」と聞けばピンと来る人も多いのではないだろうか。

僕も大学を卒業して以来、狩撫麻礼作品からはちょっと離れていたこともあって、「オールドボーイ」も「土屋バロン」の名前もカンヌの記事を見るまでは全然知らなかった。で、慌てて「オールドボーイ」を購入しようとしたのだけれど、出版社に聞いても絶版で再販の予定もなしとの冷たい回答。しかも同じような人間が多かったのか、「ヤフオク」でもすぐに売り切れ、といった状態で手に入らない。すっかり諦めていたのだけれど、何と、いつの間にか再販されているではないか!ということで、8巻まとめて購入し、3時間かけて一気読みしました。



映画「オールド・ボーイ」公式ページ


物語は、バブル絶頂期のある日、理由もわからないまま突然軟禁された男・五島が10年振りに解放されたところからスタートする。10年間―本来なら、気が触れても仕方がない状態を生き抜いた五島は、3億も払って自分を幽閉した"見えざる敵"への復讐を開始する。しかし敵の姿を捉えつつも、その実像、自分との接点、何故自分が狙われたのか、といったものが見えないまま、五島は敵である「仮名・堂島」の前に踊らされつづける…

「狩撫麻礼」およびその代表作「ボーダー」については、以前に軽く書いているのでそちらをみてもらうことにして(「蜂須賀はどこへいったのか~「ボーダー」を想う」)、この「オールド・ボーイ」でも相変わらず狩撫哲学は健在。確かに、サスペンス調のストーリーが中心の展開となってはいるが、「ボーダー」「ハード&ルーズ」に共通する「戦うべきもの」が描かれている。

確かに、現在は消費者自体が賢くなり、企業や広告業界の仕掛ける「マーケティング」「プロモーション」といったものに簡単に踊らされるということはなくなった。しかしそれは事態の好転を意味するわけではない。より巧妙な「仕掛け」によって、「市民」を「消費者」として、あるいはニーズの多様性という名で体制内化されただけであり、「感動」や「情念」、「孤独」「肉体」「魂」といった人間が根源的に抱えているであろうものを、「商品」としてスポイルしている状況を脱したわけではない。「冬ソナ」のお手軽な「感動」と「音楽」に多くの女性が涙を流しているということがそれを証明しているといっていい。

そうした「見えざる敵」の姿は、「ボーダー」や「ハード&ルーズ」ではまだ輪郭が捉えられるものとして描かれていたが、時代の変化を反映してか、この「オールドボーイ」ではあくまで「見えない」まま五島が追い込まれるという設定で描かれ、「ひじかた憂峰」の名で書かれている「湯けむりスナイパー」では主人公・源さんはそうした世界から逃れてきたという設定となっている。

こうした状況は「マーケティング」といった手法・やり方だけでなく、現代という時代そのものが拝金主義に陥ってるということとも通じているだろう。

かって卑しいことであった「金儲け」が肯定され始めたのは、カルビンらのプロテスタント宗教改革からかもしれないが、少なくとも現在の「歯止めのない」利潤追求が全世界的に容認されたのは、アメリカ資本の台頭からであり、日本ではバブル以降といっていいだろう。

とにかくうまく市場で立ち回り利潤を上げることが正しく、その企業の社会的役割や責任といったものはおざなりとなる。あるいは「知識」といったものも純粋にその「知識欲」「発見」を追いかけることから、「産官学の連携」という名のもとで実用化・商品化が是とされる。効率的な資金獲得というお題目で設置された製作委員会は「感動」を生み出すための作品をあくまで「商品」として捉えることとなり、主体的に情報発信を行う個人の結びつきが夢想されたインターネットは、今やアフィリエイトと副業、あるいは個人のアンダーグランドな欲望を満たす場として変質した…「資本主義経済」は「倫理」や「共同体」といったものから自由となり、人間のもつ「過剰さ」を純粋な「資本主義的なる」運動様式と結びつけることにより、歯止めのない「競争」と「商品化」を生み出すこととなったのだ。

はたしてこのような時代に「牧歌的な時代」を取り戻すことは可能なのか?

例えば、「天使派リョウ」の面々のようにこの"欲望"の渦巻く社会の中で、同じ価値観を共有できるもの同士小さなコミュニティの中で生きていくしかないのだろうか。あるいは「湯けむりスナイパー」の源さんのように資本主義が全面化されていない社会へと漂流しつづけるしかないのだろうか。

たとえそうだとしても、この物語のエピローグが示すとおり、どこまでいっても、あるいはどのように己の「過剰さ」と折り合いをつけたとしても、「この《戦争》は終わっていない」のだ。


■迷走王ボーダー たなか亜希夫/狩撫麻礼


■ハード&ルーズ かわぐちかいじ/狩撫麻礼


■天使派リョウ 中村真理子/狩撫麻礼


■湯けむりスナイパー 松森正/ひじかた憂峰




2 コメント

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トラックバックありがとうございました (ジャスダック上場までの軌跡 ≪日本―上海編≫)
2004-10-24 12:16:53
トラックバックありがとうございました。

こちらのブログを初めて拝見させていただきましたが、興味深い内容で気に入りました。

これからも読ませていただきます。
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見捨てられている劇画。 (STしん)
2004-10-26 09:48:27
TBどうもです。



狩撫麻礼氏の作品って知らずに読んでるの多いですね。

「ハード&ルーズ」「ボーダー」もそうですか?地味だけど凄い作品って劇画系が多いような気がします。雁屋哲氏の「野望の王国」も勢いがあって面白いし(笑)最近だと「昴」とかですか?



劇画の載ってる雑誌をライトユーザーが読まないのも要因の一つでしょうね。



「湯煙スナイパー」知らなかったので読んでます。素直に楽しいです!少しずつ読みます。



『狩撫麻礼作品リスト化されてるサイト』

http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Theater/5493/ListFrame.htm
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