正直、ほりえもんがニッポン放送株を買い占めた時、テレビではなくラジオ局だったところに「もしかしたら、こいつは本物?」という淡い期待も抱いたりしたのだけれど、結局、「テレビとネットの融合」だとかいうていのいい掛け声だけで終わってしまった。しかし、昨今の著名人ブログブームや、盛りあがっているコミュニティの特性を考えれば、テレビよりもラジオの方が相性がいいと考えるほうが普通だろう。
著名人ブログの盛り上がり方が、深夜ラジオのそれに似ていることを指摘したのは、ちょうど今から一年ほど前にブログをやり始めた時に、「週刊!木村剛」の盛り上がり方を見て、書いたとおり。
木村剛は人気DJ?!
またそれが「切込隊長BLOG」のようなものが注目され、あるいは全員が自ら発言者になるほど世界は暇でも、自立もしていないこともあって、当初の参加型メディア・自己発信型メディアという特性から、書き手と読み手とに分化した何でもありメディアに変質したというのがこの一年だった気がする。
とはいえ、そうした変質があったとしても、その背景にあるのは大多数の平均的な「マス」と呼ばれる層が反論をしない/できないというだけの内容ではなく、発信者側が多少脱線した発言があったり、個性的な(クセのある)内容だったりにこそ人気の源泉があるという点で、やはりかっての深夜帯のラジオなどと共通点があるように思える。「好き」も「嫌い」も含めて、「反響」を呼ぶ「個性」こそが求められているのだ。
そんな中で、何故、今、ラジオではなく、ブログなのだろうと考えてみると、1つは所謂「ラジオ」もスポンサー次第という現実があり、もう1つはラジオに触れる時間よりPCに触れる時間が増えてきたという現実があり、そしてそれらを貫通するように「あいまいな時間の共有」という感覚が求められているからではないだろうか。
あいまいな「時間の共有」。つまり様々なライフスタイル・生活様式が生まれた中で、皆が共有できる時間(特定のテレビ番組やラジオなど)というものが失われてしまった。しかし世界は本当に自分が欲するものを知っているというほど「オンデマンド」が求められてる世界ではない。誰かの発言、情報、選んでもらったコンテンツを与えられることを望みながら(受身的に消費したいと望みながら)、現実的にはそれぞれの生活のペースが違ってしまっている―こうした自体が、あいまいな「時間の共有」感覚というものを生み出しているのではないだろうか。
何となくの「最新情報」を自分の得られるタイミングで得て、その情報を共有している気になる。数時間・Daily・2~3日という単位で新しい「コンテンツ」をメンバー間で共有し、常に参加している気になる。あるいは与えられたなんちゃって「最新情報」を消費することで、時代に乗っている気になる。そうした感覚を満たすことこそ求められているのだ。
そしてこの手の反応こそ、マスメディアでは実現し得ない、情報過多の時代に「安心感」を与えてくれるものなのだろう。
著名人ブログの盛り上がり方が、深夜ラジオのそれに似ていることを指摘したのは、ちょうど今から一年ほど前にブログをやり始めた時に、「週刊!木村剛」の盛り上がり方を見て、書いたとおり。
木村剛は人気DJ?!
またそれが「切込隊長BLOG」のようなものが注目され、あるいは全員が自ら発言者になるほど世界は暇でも、自立もしていないこともあって、当初の参加型メディア・自己発信型メディアという特性から、書き手と読み手とに分化した何でもありメディアに変質したというのがこの一年だった気がする。
とはいえ、そうした変質があったとしても、その背景にあるのは大多数の平均的な「マス」と呼ばれる層が反論をしない/できないというだけの内容ではなく、発信者側が多少脱線した発言があったり、個性的な(クセのある)内容だったりにこそ人気の源泉があるという点で、やはりかっての深夜帯のラジオなどと共通点があるように思える。「好き」も「嫌い」も含めて、「反響」を呼ぶ「個性」こそが求められているのだ。
そんな中で、何故、今、ラジオではなく、ブログなのだろうと考えてみると、1つは所謂「ラジオ」もスポンサー次第という現実があり、もう1つはラジオに触れる時間よりPCに触れる時間が増えてきたという現実があり、そしてそれらを貫通するように「あいまいな時間の共有」という感覚が求められているからではないだろうか。
あいまいな「時間の共有」。つまり様々なライフスタイル・生活様式が生まれた中で、皆が共有できる時間(特定のテレビ番組やラジオなど)というものが失われてしまった。しかし世界は本当に自分が欲するものを知っているというほど「オンデマンド」が求められてる世界ではない。誰かの発言、情報、選んでもらったコンテンツを与えられることを望みながら(受身的に消費したいと望みながら)、現実的にはそれぞれの生活のペースが違ってしまっている―こうした自体が、あいまいな「時間の共有」感覚というものを生み出しているのではないだろうか。
何となくの「最新情報」を自分の得られるタイミングで得て、その情報を共有している気になる。数時間・Daily・2~3日という単位で新しい「コンテンツ」をメンバー間で共有し、常に参加している気になる。あるいは与えられたなんちゃって「最新情報」を消費することで、時代に乗っている気になる。そうした感覚を満たすことこそ求められているのだ。
そしてこの手の反応こそ、マスメディアでは実現し得ない、情報過多の時代に「安心感」を与えてくれるものなのだろう。
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