一方の極である「∞(無限大)」ともう一方の極である「0(無)」とが等しくなる理由はよく分からないけれど、ITという「時間」と「空間」という概念を消失させるテクノロジー、身近なところで行くとインターネットの登場によって、僕らの「時間感覚」というのは全く異なる2つの極に分断されている/あるいは同一の事象が2つの正反対の事柄として認識されている気がする。
1つは「近代」の延長としてますます加速するスピード感であり、もう1つは時間の「停滞」であり、「蓄積」であり、そもそも直線的に流れていく「時制」というものが消失してしまったかのような感覚だ。
加速する時間感覚については誰でも何となく分かるだろう。仕事はますます忙しくなるし、締め切りや納期は厳しくなる一方。競争は激しくなるし、新しい技術や仕組みがドンドン登場する。
特にIT関係・ネットの世界ではいったん後追いに回ったら最後、ひたすら追い掛け続けることになる。どこまで走っても限がない。GOALなき永遠のβ状態。
こうした動き自体は何もここ数年に限ったわけではない。明確な根拠があるわけではないけれど、「近代」というものの成立して以来、あるいは「資本主義」的なる行動様式と人間の「過剰さ」が結び付いたときから少しづつ加速してきたものだろう。僕らの持つ「過剰さ」、動物的な欲求充足では満足できず、他者の欲望さえ欲しようとし、あるいは必要以上に求め、蓄え、拡大し、支配しようとする「欲深さ」に対して、それを拡大再循環する回路が出来上がったときから、僕らはこの終わりなきレールの上を走るしかなくなったのだ。
そして「IT」という「時間」と「空間」を「0(無)」にする技術の登場によって、そうした競争環境は更に加速を増していくことになる。
これに対して、もう一方の「停滞」「蓄積」「時制の喪失」とはどういう感覚か。
「手紙」であれば書いてから相手に届くまでに「物理的な」時間の隔たりがあった。しかしそれは後から読み返すことが可能であり、蓄積可能な非リアルタイムなコミュニケーションツールだった。これに対し「電話」はそうしたコミュニケーションのあり方を「リアルタイム」に実現することを可能にした。
しかし「手紙」にしろ「電話」にしろそれはそれぞれ特定の特性をもったコミュニケーションツールだった。だからこそ、利用する側も手軽に話をしたり急を要する場合は「電話」を、相手に記憶して(見直して)欲しい場合や手間隙をかけて誠意を伝える場合には「手紙」をといった具合に使い分けてきたのだ。
しかし果たしてITが、インターネットが実現したことはどうだったか。
例えば「BLOG」。果たしてここに在るのは「現在」なのか「過去」なのか。
仮にガンに犯され余命あと半年の人間の闘病日記がブログにUPされているとしよう。あなたはたまたま検索結果にひっかかったそのブログのとある記事に感銘を覚えたとしよう。あなたはその記事を読み、あるいはそれ以前の記事を読み、あるいはそれ以降の記事を読むことができる。
その人の必死に生きる姿に感動し、励ましの言葉をその記事に残すこともできる。
それを他の人に紹介し、紹介された友人もまた同じように感動をするかもしれない。
あるいはその闘病ブログの作者はそうした(過去の記事にかかれた)コメントを読み、コメントを返してくれるかもしれない。
そうした一連の行為の「時制」とは一体「いつ」になるのか。あなたが感動した記事は既に「過去」の作者の体験であり、しかしあなたがコメントを残すのはあなたにとっての「現在」であり、それを読んだ作者がコメントを返すのは作者にとっての「現在」である。
あるいはあなたが必死にガンと闘っている姿に感動を覚え、コメントを残した時、既にその作者はこの世にいないのかもしれないのだ。あなたは「いつ」の人とコミュニケーションをしていたのだろうか。
これまでの過去から現在、そして未来へと直線的に流れていくのが当たり前であった「時制」という感覚は、実はインターネットでは存在しないのかもしれない。これまで僕が「あいまいな時間感覚」として捉えていたものは、こうした「時制」の存在しないこと、「現在」から「過去」までが滞留している「時間感覚」のだったのだろう。
アメリカのネイティブインディアンのホピ族の研究によると、古代の人々にとっては時間感覚は「過去」から「未来」へと流れていくものではなかった。そこにあったのは「過去」も「現在」も含めた「顕在態」とまだ現世に現れていない「潜在態」との2つの世界であり、「潜在態(まだ現れていないもの)」から「顕在態(現れたもの)」へと状態が変化しただけであり「流れていく」という感覚ではない。
インターネットがもたらした感覚というのは、こうした世界に近いのではないか。
一方でどんどん加速していきながら、その一方で「過去」も「現在」も区別なく存在している。時制の存在しない世界。そこには「進化」とか「未来」というものもなく、ただあなたがアクセスできる「顕在態」としての世界しかないのかもしれない。
余談になるけれど、今年、いろいろ考えていきたいテーマの1つとして「Lifelog(ライフログ)」の問題がある。このブログもそうだけれど顕在態としてのインターネット空間の中で「Lifelog」、つまり僕ら自身の過去から現在までをどう位置づければいいのか、あるいはどんな可能性があり、課題があるのか。そのあたりについても考えていきたいと思う。
1つは「近代」の延長としてますます加速するスピード感であり、もう1つは時間の「停滞」であり、「蓄積」であり、そもそも直線的に流れていく「時制」というものが消失してしまったかのような感覚だ。
加速する時間感覚については誰でも何となく分かるだろう。仕事はますます忙しくなるし、締め切りや納期は厳しくなる一方。競争は激しくなるし、新しい技術や仕組みがドンドン登場する。
特にIT関係・ネットの世界ではいったん後追いに回ったら最後、ひたすら追い掛け続けることになる。どこまで走っても限がない。GOALなき永遠のβ状態。
こうした動き自体は何もここ数年に限ったわけではない。明確な根拠があるわけではないけれど、「近代」というものの成立して以来、あるいは「資本主義」的なる行動様式と人間の「過剰さ」が結び付いたときから少しづつ加速してきたものだろう。僕らの持つ「過剰さ」、動物的な欲求充足では満足できず、他者の欲望さえ欲しようとし、あるいは必要以上に求め、蓄え、拡大し、支配しようとする「欲深さ」に対して、それを拡大再循環する回路が出来上がったときから、僕らはこの終わりなきレールの上を走るしかなくなったのだ。
そして「IT」という「時間」と「空間」を「0(無)」にする技術の登場によって、そうした競争環境は更に加速を増していくことになる。
これに対して、もう一方の「停滞」「蓄積」「時制の喪失」とはどういう感覚か。
「手紙」であれば書いてから相手に届くまでに「物理的な」時間の隔たりがあった。しかしそれは後から読み返すことが可能であり、蓄積可能な非リアルタイムなコミュニケーションツールだった。これに対し「電話」はそうしたコミュニケーションのあり方を「リアルタイム」に実現することを可能にした。
しかし「手紙」にしろ「電話」にしろそれはそれぞれ特定の特性をもったコミュニケーションツールだった。だからこそ、利用する側も手軽に話をしたり急を要する場合は「電話」を、相手に記憶して(見直して)欲しい場合や手間隙をかけて誠意を伝える場合には「手紙」をといった具合に使い分けてきたのだ。
しかし果たしてITが、インターネットが実現したことはどうだったか。
例えば「BLOG」。果たしてここに在るのは「現在」なのか「過去」なのか。
仮にガンに犯され余命あと半年の人間の闘病日記がブログにUPされているとしよう。あなたはたまたま検索結果にひっかかったそのブログのとある記事に感銘を覚えたとしよう。あなたはその記事を読み、あるいはそれ以前の記事を読み、あるいはそれ以降の記事を読むことができる。
その人の必死に生きる姿に感動し、励ましの言葉をその記事に残すこともできる。
それを他の人に紹介し、紹介された友人もまた同じように感動をするかもしれない。
あるいはその闘病ブログの作者はそうした(過去の記事にかかれた)コメントを読み、コメントを返してくれるかもしれない。
そうした一連の行為の「時制」とは一体「いつ」になるのか。あなたが感動した記事は既に「過去」の作者の体験であり、しかしあなたがコメントを残すのはあなたにとっての「現在」であり、それを読んだ作者がコメントを返すのは作者にとっての「現在」である。
あるいはあなたが必死にガンと闘っている姿に感動を覚え、コメントを残した時、既にその作者はこの世にいないのかもしれないのだ。あなたは「いつ」の人とコミュニケーションをしていたのだろうか。
これまでの過去から現在、そして未来へと直線的に流れていくのが当たり前であった「時制」という感覚は、実はインターネットでは存在しないのかもしれない。これまで僕が「あいまいな時間感覚」として捉えていたものは、こうした「時制」の存在しないこと、「現在」から「過去」までが滞留している「時間感覚」のだったのだろう。
アメリカのネイティブインディアンのホピ族の研究によると、古代の人々にとっては時間感覚は「過去」から「未来」へと流れていくものではなかった。そこにあったのは「過去」も「現在」も含めた「顕在態」とまだ現世に現れていない「潜在態」との2つの世界であり、「潜在態(まだ現れていないもの)」から「顕在態(現れたもの)」へと状態が変化しただけであり「流れていく」という感覚ではない。
インターネットがもたらした感覚というのは、こうした世界に近いのではないか。
一方でどんどん加速していきながら、その一方で「過去」も「現在」も区別なく存在している。時制の存在しない世界。そこには「進化」とか「未来」というものもなく、ただあなたがアクセスできる「顕在態」としての世界しかないのかもしれない。
余談になるけれど、今年、いろいろ考えていきたいテーマの1つとして「Lifelog(ライフログ)」の問題がある。このブログもそうだけれど顕在態としてのインターネット空間の中で「Lifelog」、つまり僕ら自身の過去から現在までをどう位置づければいいのか、あるいはどんな可能性があり、課題があるのか。そのあたりについても考えていきたいと思う。
http://gogllle.net/gorigorijan/Brsu0AAR.html