先日、奈良国立博物館の正倉院展を覗いてきた。「東大寺正倉院」といえば誰でも日本史の授業で聞いたことのある建物。校倉造の高床式の建物で世界遺産にも認定されている。
今回の正倉院展では、聖武天皇ゆかりの宝物が多数出陳されていた。当時の皇族・貴族たちが遊んでいたであろう双六の駒や賽子(さいころ)があったり、徴税の記録があったり、遠くシルクロードを経てたどり着いたコバルトブルーの瑠璃坏があったり…そんな中には刀子もあった。
「刀子」というのは小刀の一種。当時は紙が貴重であったため木簡や竹簡に字を書いたりしていたが、書き損じなどをした場合にはこの刀子を使って削って修正する、つまり当時の文人にとっては必須の文房具だった。
言ってみれば、この刀子の必要な機能としては削るための刃の部分なわけだけれど、実際、ここに展示してあった「刀子」を見ると、刃の部分というよりは柄の部分や鞘に施されている装飾の繊細さ、美しさに驚かされてしまう。当時にこれだけの技術があるのか、と。
仮に当時の人々が「必要性」に追われているような切迫した日々を過ごしていたのなら、このような装飾はなかったのだろう。「刃」ではない部分にこれだけ装飾をかけられる余裕があるというのは、それらを利用していた人々が豊かで余裕があったということなのだろう。
そしてそのように飾り付けをしたがる心性というのは現在でも変わらないのだろう。ぼくらがスマホのカバーに装飾したり、「かわいい」というだけでかえって使い勝手が悪いボールペンを買ったりするのと何ら変わらない。人間の心性なんてものはそう変わりはしないのだ。
もちろん大きな違いもある。
この正倉院の宝物というのは、光明皇后が故・聖武天皇の遺愛品を東大寺に献納したもの。つまり当時の最も高貴な階級の人々の品であり、だからこそそうした装飾品を利用する余裕があったとも言える。平民たちがそのように暮らしに余裕があったとは思えない。
それに比べれば、今は誰もが「必要性」「機能性」ではなく「デザイン」「ブランド」(かわいい等の)「心地よさ」や「快」によって商品を選択し購入している。それだけ豊かな暮らしを送っているということなのだろう。しかしそうした豊かさに裏うちされた「選択肢」の多さは果たして「満足感」を満たしてくれているのか。選択肢が増えたことで、かえって「足りないもの」が気になり、「満足」から遠くなっているのではないか。いや、視点を変えるなら、生活が豊かになったからこそ、満足からは遠くなっているのではないか。
それは現在だけの話ではない。奈良時代の貴族たちは、農民たちに比べれば遥かに豊かな生活を送っていたはずだ。にもかかわらず、その結果が、大の大人が過剰な装飾を施された盤の上で双六を楽しむことだとしたら、一時的な楽しさはあるのかもしれないが、満足した生活だとは思えない。僕らの心性に違いがないのだとすれば、それはただの「暇つぶし」でしかなく、彼らもまた満足感のない生活を過ごしていただけなのかもしれない。
第64回正倉院展|奈良国立博物館
今回の正倉院展では、聖武天皇ゆかりの宝物が多数出陳されていた。当時の皇族・貴族たちが遊んでいたであろう双六の駒や賽子(さいころ)があったり、徴税の記録があったり、遠くシルクロードを経てたどり着いたコバルトブルーの瑠璃坏があったり…そんな中には刀子もあった。
「刀子」というのは小刀の一種。当時は紙が貴重であったため木簡や竹簡に字を書いたりしていたが、書き損じなどをした場合にはこの刀子を使って削って修正する、つまり当時の文人にとっては必須の文房具だった。
言ってみれば、この刀子の必要な機能としては削るための刃の部分なわけだけれど、実際、ここに展示してあった「刀子」を見ると、刃の部分というよりは柄の部分や鞘に施されている装飾の繊細さ、美しさに驚かされてしまう。当時にこれだけの技術があるのか、と。
仮に当時の人々が「必要性」に追われているような切迫した日々を過ごしていたのなら、このような装飾はなかったのだろう。「刃」ではない部分にこれだけ装飾をかけられる余裕があるというのは、それらを利用していた人々が豊かで余裕があったということなのだろう。
そしてそのように飾り付けをしたがる心性というのは現在でも変わらないのだろう。ぼくらがスマホのカバーに装飾したり、「かわいい」というだけでかえって使い勝手が悪いボールペンを買ったりするのと何ら変わらない。人間の心性なんてものはそう変わりはしないのだ。
もちろん大きな違いもある。
この正倉院の宝物というのは、光明皇后が故・聖武天皇の遺愛品を東大寺に献納したもの。つまり当時の最も高貴な階級の人々の品であり、だからこそそうした装飾品を利用する余裕があったとも言える。平民たちがそのように暮らしに余裕があったとは思えない。
それに比べれば、今は誰もが「必要性」「機能性」ではなく「デザイン」「ブランド」(かわいい等の)「心地よさ」や「快」によって商品を選択し購入している。それだけ豊かな暮らしを送っているということなのだろう。しかしそうした豊かさに裏うちされた「選択肢」の多さは果たして「満足感」を満たしてくれているのか。選択肢が増えたことで、かえって「足りないもの」が気になり、「満足」から遠くなっているのではないか。いや、視点を変えるなら、生活が豊かになったからこそ、満足からは遠くなっているのではないか。
それは現在だけの話ではない。奈良時代の貴族たちは、農民たちに比べれば遥かに豊かな生活を送っていたはずだ。にもかかわらず、その結果が、大の大人が過剰な装飾を施された盤の上で双六を楽しむことだとしたら、一時的な楽しさはあるのかもしれないが、満足した生活だとは思えない。僕らの心性に違いがないのだとすれば、それはただの「暇つぶし」でしかなく、彼らもまた満足感のない生活を過ごしていただけなのかもしれない。
第64回正倉院展|奈良国立博物館
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