12キロあるへびの形のグミのコマーシャルを見ましたが、すごいなーと思いました。
何しろ大蛇ですよ、びっくりです!
それがグミでできていて、赤や黒い色もありました。
それを食べるわけですから。
でも、パーティーでは受けるかもしれませんね。
首に巻いて、ギターを弾いて歌っていましたが、本物に見えてしまいました。
本当に食欲の湧かないグミなので、ダイエットには良いかとも思いますが、わざわざそれを買うこともないですね。
すっかり寒くなってしまいました。
おこたにへばりついて資料作りをしていると、眠くて眠くて仕方がありません。
最近は、運動不足がたたり、階段などを歩いていると、足の筋肉や間接がぐきぐきしてしまいます。
ところで、明治時代の作品を描くにあたって、すでにみなさん亡くなった方々の写真を見ていますが、この人はどんな人生を歩んだのだろうかと想像してしまいます。
ものすごく、成功した人もいれば、そうでない方もいます。
家族に恵まれなかった方もいます。
何が幸せかは、経歴だけでは分からない物ですが、晩年の顔を見ながら苦労は顔に出るものだなーと感じています。
私自身は、おばあさんになって、クリスチャンらしい良い顔になっていたいものです。
川路寛堂と言う方の資料を調べていました。
この人の祖父の聖謨は、幕末時代、大坂奉行などをした方で勝海舟からは人が悪くてずるいと言われています。
その息子、つまり寛堂のおとうさんは、寛堂が3才の時に亡くなっているので、おじいさんの庇護の下、親戚の家でかわいがられて育ちました。
22歳の時、幕府の80名の中から14名選ばれてイギリスに留学したのです。
24歳のときには、幕府が瓦塊したので、体が動かなくなっていたおじいさんは自害してしまいます。
帰国した寛堂は、明治になって事業を興しますが失敗してしまいます。
その後、大蔵省に入り、海外にいろいろ遣わされていましたが、33歳の時、官制改革のため首になってしまいました。
再び事業を興しますが、またまた失敗をしてしまいます。
そんな時に、製紙会社の社長夫妻の結婚式の仲人したり、結構有名な人たちとの付き合いがありました。
その後、私塾をひらき、後には、女学校の校長をしました。
この川路寛堂は、40代半で、自分の人生の失敗の跡をまとめた「月山漫筆」を子孫の戒めのために書きました。
もし、この人がすべてのことを感謝することを知っていたら、もっと違った人生だったのになーと思いました。
裕福な家に生まれ、父親はいませんでしたが、愛情がいっぱいの中で育ったのです。
そして、エリートとして留学までした訳ですから、恵まれた人生のはずですよね。
校長までしていたのに、40代半で人生を嘆いて暮らしたなんて、もったいないなーと感じました。
悪いことでも感謝して行く時、神様の手が動くと言う信仰を知っていたら、本当に違う人生になっていたでしょうね。