
明日は、松戸の戸定邸に行く予定です。
ここは、徳川慶喜の16歳下の弟、徳川昭武の別邸でした。
明治17年に建築され、大名の下屋敷の建築様式を踏まえています。
平成18年に、国の重要文化財に指定されました。
慶喜と昭武は、お母さんが違いますがものすごく仲の良い兄弟です。15代将軍徳川慶喜の名代で1867年の14歳の時、昭武はヨーロッパを訪問し、パリ万国博覧会に出席しています。
「プリンス・トクガワ」と言われましたが、その後は、パリに留学しました。
徳川慶喜は、フランスが大好きで、フランス語も習っていたし、軍隊もフランス式を取り入れていました。
当時、薩摩は、イギリスの後押しがありましたが、アメリカは南北戦争中なので、日本どころではありませんでした。昭武はナポレオン3世に謁見していますが、慶喜は、ナポレオン3世からもらった軍服を着て馬に乗った写真が残っています。
やがて、幕府が崩壊し、昭武は、新政府によって帰国命令が出ます。
明治政府になってからは、お父さんの徳川斉昭のいた水戸藩知事になり、フィラデルフィア万国博覧会のため、アメリカい行きます。
その後、再びパリで留学生活を送りましたが、晩年は、隠居して松戸の戸定邸でお母さんと一緒に住んでいました。
徳川慶喜の曾孫の方が、慶喜の撮った写真を発見されその写真も展示されています。
兄弟そろって、写真や狩りに熱中していたそうです。ところで、徳川慶喜と言う人は、天皇が大好きな方でしたが、はからずも朝敵になってしまい、その後勝海舟の尽力もあり、公爵になりました。
徳川時代は、仏教を利用してキリスト教を迫害してきましたが、慶喜は神道になりました。
孫の方が書かれた「徳川慶喜家の子供部屋」に神道式のお葬式の模様が詳しく出てきます。
部屋を白い布で全部覆うのです。
お墓も、将軍たちのお墓とは別で神道の丸いお風呂のような形をしたお墓です。
その上には、月見団子のように石が積んであります。
家康の再来と言われた徳川慶喜が良く、遊びに行った戸定邸に行来ます。
次回作には、この慶喜さんも、少し出てくる予定です。
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