「 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」
マタイ 5章 44節
私たちは知っています。当然という愛があると言う事を、それは親子の愛・情熱の愛・友情という愛を、これらもまた、儚く消えゆくよう
な薄ぺらい愛に成り果ててしまったような時代です。神はこのような愛よりも、とても受け入れがたい愛を望んでおられるのです。
こんなラビの話があります。
出エジプトの際に。エジプト軍が紅海で溺死したときのことだそうです。この大きな業を御使いが讃美の歌を歌い始めると、神は悲し
んで言われた。「私の手の業が海に沈んでしまったのに、お前たちは私の前で歌うのか」と。神はご自身が作られた被造物のうち何
が滅んでも喜ばれないのです。
「渡る世間に鬼はなし」ということわざがありますが、ご時世では、「渡る世間は鬼ばかり」のようです。また一歩家を出れば、七人
の敵がいるとも言われています。事実、人間の歴史は民族と民族、国と国との敵対と争いの繰り返しでした。今この時点でもこれが
正義だと振りかざしている醜い争いがあるのです。ところが、イエスは、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言われました。
敵を愛せよが響くところに新しい世界が始まるのです。全ての人に、「太陽を上らせ、雨を降らせてくださる」天の神の存在にありま
す。敵であれ、隣人であれ、神は全ての人間にとっての天の父なのです。またすべての人間にとって子供なのです。
聖書から
「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませ
んか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」マタイ 5章から。
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