「運」という言葉が嫌いでした
受け入れられなかった
ただの言い訳だと思っていたからです
「運」は、自分ではコントロールできないということだし
「運」は、選べないということ
ゆるせん
だからこう思った
「そんなものに頼るようなことはしない」
もし「不運」と感じたら、そこから脱出する努力をするべきだったし
もし「不運」なら、それは努力不足だった
転じて
もし「幸運」なら、それは本人の努力の賜物だと思って疑わなかった
とくに、ロスジェネ世代の私には、「自己責任」とともに大変親和性の高い、大変強固な、支配力の強い考え方だった
…
依存症の病院につながり、仲間とつながり、ステップをふむなかで、この「運」に対する考え方が
変わっていった。
そもそも私は依存症のグループに、努力してつながったわけではなかったし
専門病院も偶然近くにあり
電話をしたとき
たまたま初診を受け付けている日だった
…
「運」は自ら死に物狂いで取りに行くもの、
という考えから
「運」は、与えられるものーたとえ理不尽なものであってもーという考えになり
そして
「運」は、どうやらすでに与えられているし、必要なものが必要な時に降ってくるようだと気づき
いま
「運」は、仲間に手渡していくべきだ、自分だけで独り占めは何の意味がある?と
思うようになりました
今日一日