矛盾を抱えることができるというのは、柔軟性があるということ
今日読んだところ、それまでに、幻聴幻覚で苦しむ当事者に介入していく話なんだけど、私がすごく嫌だなと思ったのが、当事者の成人男性が、自分で電話せずに自分の母親に「もう来ないように断ってくれ」って電話させてるところ。アル中夫が妻や母親に会社に休みます電話させるのと一緒って感じで、この許され感が許せん。
あと、看護スタッフへ暴力的な態度、とくにいつも熱心に関わってくれる看護師に暴力ふるうらしい当事者に、「戸惑い、自責の念に駆られているのは他ならぬ当事者」って、信じるのはいいけど、なんかこれって「好きだからついつい意地悪なことしちゃうんだよ、許してあげて。意地悪して、いちばん苦しんでるのは本人なんだよ」に似ててやっぱゆるせん。なぜ暴力ふるった人が被害者なんだ。
でもここでふっと、「あ、こうして、当事者にかかわっていく役割を、女性や弱い人へ押しつけずに、支援者がするのって、いいかも」っておもた。
p71
「根拠なく一方的に信じる」ということは、決して「期待の先取り」ではない。…中略…(信じるとは)「未知への跳躍」であり、信頼するとは「まかせるということ」…「にもかかわらず、この困難な現実を生き抜くことの主役を当事者自身に"まかせる"ことである
弱いものが先
強いものは、弱いものに依存している
一見、弱いものが強いものに依存しなければ生きられないように見える
そうではない
喉が渇いている人がいなければ、みかんは渡せない
先生と生徒も同じ
学びたい人がいなければ先生は存在できない
守ってくれと言う人がいなければ、守る人は要らない
そこはまちがってはならない
今日一日
今、私はどちらかの立場だ。加害者か被害者。どちらでもないってことは、あり得ない。中立の立場はない。
被害者のときは自覚しやすい。被害を受けてるので、生き延びるために何か行動しないといけないから。たとえそれが「私は別に被害を受けていない。なぜなら私はそれを好きでやってるから」って表明することだったとしても。そうやって表明しなければならないのだから。
加害者のときは自覚しにくい。「そういう難しい話はちょっとわからない」って言っていられるから。それが、加害に罪悪感なく加担していることなのに。
被害者だけが被害をなくすために行動しなきゃならないなんておかしい。いくら被害者が「やめろ」と言っても、逃げても、加害者がやめない限り、加害は続くから。
…
被害者の痛みは加害者にはぜったいにわからない。加害者は被害者の靴をはいて歩いてみるって、本当は絶対できない。絶望的なくらい。加害者はそこまで自覚しないといけない。決して「わかる」「履ける」といってはならない。
そして、
「その靴を履けない自分たちからしたら、靴を履けるのって、特権ですよ。羨ましい」これは本当の本当の本当に、いけない。あってはならない。
加害者が被害者のためにできるのは、被害者に代わって経験できるはずのない痛みを説明したり、被害者より被害のことをよく知っていると言ったり、被害者に被害に遭わないためのアドバイスをしたりすることではない。
加害者ができるのは、加害者の自覚を持つこと、加害を今すぐやめること、加害者を止めることだけ。
今日一日