マリアヨハンナさんのブログ

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人と支え合っていくこと

2018年05月17日 | 信仰と祈り

大好きな聖歌のひとつに《愛の賛歌》があります。

コリントへの第1の手紙13章の1節からの歌です。

♪ たとえ 私が 人間と天使のことばを話しても、 愛がなければ鳴る青銅と響き渡る銅鑼(どら)に等しい。

  たとえ 私が 預言の賜物を持ち、全奥儀と全知識に通じ、山を動かすほどの満ちた信仰を持っていても、 愛がなければ無に等しい。

  たとえ 私が 全ての財を施し、この体を焼かれるために与えても、 愛がなければ益することが無い。

 愛は寛容で 愛は慈悲に富む。 愛は妬(ねた)まず、誇らず、高ぶらない。

 非礼をせず、自分の利を求めず、憤らず、悪を気にせず、不正を喜ばず。

 真理を喜び、全てを許し、全てを信じ、全てを希望し、全てを耐え忍ぶ。 愛はいつまでも 絶えることがない♪  (楽譜下記参照)

 誇れるような知識や話す技術もない私には、何より有難い”聖なる言葉”です。

 ところで、知識や技術を余すところなく他の方のために使って決っして誇らない、素晴らしい先輩信徒の下田氏がいらっしゃいます。 身近な信徒仲間を助け、教会のお知らせや広報資料を、高齢や病気の為にミサに与れない方のためにお届けしていました。

 彼は、あるご夫婦の奥様が大病で入院され、ご主人様も重大な病気を自覚なさっていなかったので、病院に連れて行き、検査を受けさせて介助されていました。 介護認定を取る手続きをし、高齢者施設を探して契約の補助をし、さらに、大病の為自力で判断がおぼつかなくなった奥様の為に、病弱なご主人の負担軽減を考えて、司法書士を探して「成年後見人」として紹介。 その後1か月でご主人は帰天。 お子様がいらっしゃらなかったのでご葬儀もなさいました。 彼の機転と早い決断と活動がなかったら、奥様はその後どうなさっていたか…。 奥様は13年後に帰天。 その途中で私が見守りを交代しました。 その後に、彼に頼まれて神父様のところに亡くなられる前にご主人から、今後の事を頼むということでお預かりした50万円を教会の建設募金に預けたいから同席して欲しいと言われて神父様のところに伺いました。 見守りの間には、かなりの金銭的な負担もあったことは伺えます。高齢者施設へ訪問する度にお土産を届け、施設へも慰労の品を届け。けれども、彼はそれを一銭もとらずに教会に…。

 また、私も少しだけ補助をしていた牛山光子さんの病気が通常でないことをいち早く見つけ、専門医に連れて行きました。案の定、難病でした。その後に介護保険の取得~諸々の手続きの補助。介護支援センター他との仲介と補助。 5階の住居を1階に引っ越しする手続きと補助。ご親族との連絡等々。 本当に頭が下がります。 最後は葬儀までご一緒にお手伝いしました。

 彼からは、他に数名の方々の見守りを受け継ぎました。 とても、下田さんのようには出来ないなとつくづく思います。 私にも高齢の母、義母がいますので、時間的にも余裕があるわけではないので…。 働いてもいませんから大した収入もありません。 でも、生活に支障のない範囲で出来る限りと思って見守りをさせて頂いています。 高齢になると年を追うにつれて以前には思わなかったことが起こります。 彼自身、今、病気を抱えながら、やはり病気の奥様を見ています。 先の帰天されたご夫妻の見守りで強く感じるところがあって、早めに自宅を処分して高齢者施設に入りました。

 私に出来ることは、本当に誠心誠意でお顔を見に伺って、お話を出来るだけ聞き、何か足りないと思えることを感じたら、出来る範囲で調達し、届けること。 病院などの送迎などを負担と感じるようなことのない範囲で… でも、以前に同じような経験をされている下田氏は本当に喜ぶと同時に恐縮されて…。 差し出がましいとは思いつつ私の判断で必要と思われた物を購入した分に諸々送迎のガソリン代とかプラスアルファの金額を渡されて困惑しています。 最初から、お金は一切受け取りませんとお伝えしているからです。 自分が勝手に購入したものはとても喜んでいただけたのですが、あくまでもこれは私の思い。 お金を頂くことを最初から考えていないものです。 是非にと乞われて受け取って、「これはどこかの募金(献金)にしますね」とお伝えしました。

 ふと頭をよぎりました。 教会の建設臨時献金というのは、ただ、持っているお金を預かっただけになるだけ。 その間の大きな思いや行い{愛}は伝えられないのです。 それぞれの思いで食べ物や手芸品を売ってその売上金を「建設会計への献金」として、教会広報にそのグループの名前が列挙されています。 勿論、その作業と献金されたことは尊いことだと思います。 ただ当事者の方から、「私たちは作って献金しているからね~」と言われてちょっとガッカリ。 それほどない中から、心を思いを祈りを込めてされた献金額は4半期のまとめの細かい数字の中に入っているだけなので、食べ物や手芸品の作成と販売利益のように意識されて気付くことはありません。 心込めて時間と労力を使ったことに対する感謝としてお預かりした大切なお金は教会以外にしようかしら・・・いろいろと悩みます。 今まで何回か皆様からの御心(ミサへの送迎他に対する)をお預かりして献金していたのですけれど…。 別に名前を入れる必要はないのです。 お菓子などと同じく建設会計に…集計金額を日々の広報に掲載しても良いのではないのかしらなんて思います。 また、折角、いらした他教会の方まで献金をと入れて下さっているのですから…。 あくまでも臨時の献金なのでいつも入れてもらえるわけではないのですから…。食べ物などを作って得た献金と同じ心、同じ思いではないのかしら?

 ところで、教会での支援にどうして、信徒同士の声掛けや支え合いがないのでしょう? 教会に来ている方と積極的に教会にアプローチしてくる方やその家族だけが支援(祈る)すべき人々なのでしょうか? 教会に来ない人はその人のせいだけなのでしょうか? 日頃から、近くに住んでいる信徒同士がもっと身近に声かけあって、いざという時には、本人からの声だけでなく、地域の信徒からのアプローチがあってもいいのではないでしょうか? 一方的なお知らせとして、降誕節、四旬節、慶老会のお知らせだけではなく。 ご案内だけでは「愛」の証ではないように思えます。 信徒同士が本当に愛し合っているっていう状況をもっと考えたいと思います。

 ひとりひとりが大切なキリストの兄弟姉妹なんだよって思って…。 どこかのクラブやサークル活動とは違うんです。 来る人だけはいいけれど、来なかった人は姉妹じゃないって言えますか? 声掛けをすることって大事なように思います。 信徒同士の宣教という意味でも・・・。



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