おはようございます〜
昨日は 松尾芭蕉が五十歳で亡くなられた日でした。
慎んでご冥福をお祈りします。
松尾芭蕉は大坂に住まいをしていましたが‥この当時は 大阪は 大坂と書いていました。亡くなったのは
元禄七年ですから 徳川幕府の開府以来世の中も落ち着いて江戸時代の文化が
花ひらいて華やかし頃だったようです。
松尾芭蕉を少し紹介をしますと、1672年、武士を見切り俳諧師を志して郷
里の伊賀上野を出て京に上り北村季吟のもとで俳諧、古典を学びました。
そのあとにいよいよ江戸に下りました。‥今なら江戸(東京)へは上京と言いますよね。ですが 当時の都は京 でしたので京に行くのを上る その他は下る と言いました。
天皇は都(京都)にお住まいでしたが、政治、文化は江戸が中心になっていました。ただ徳川幕府も何を勘案したのか
経済は大坂を中心に置きました。例えば 当時の経済の中心的な物資である お米は大坂の堂島で取引を行っていました。
それも世界初の先物取引として四百年前に確立されていたのですから日本人の経済感覚とは素晴らしいものがありました。
他にも酒、衣類、木材など生活に直結するものは関西から江戸に運ばれていました。
それで芭蕉の話に戻りますが この芭蕉は 旅が好きなようですね。
45歳のころ 遂に 念願の「奥の細道」東北から日本海側を回り岐阜県の大垣が終点。
その距離 六百里 と言いますから約2400キロ、150日掛けてあちらこちらの名所旧跡を見て回ったのですね。
然(しか)し5ヶ月間とは何ともはや長旅 ご苦労さまでした^^
今でこそ新幹線や飛行機 クルマがありますからこの行程ならゆっくり廻っても二週間くらいですか。
当時は、ほとんどが徒(かち)歩きですよね。将棋の駒でも 歩兵がありますが やっぱり兵隊さんは歩いたのでしょうか。
今回 芭蕉のことを少し調べましたが 奥の細道へ 出発したのが45歳と知ってちょっとびっくりでした。
予想と言いますか、先入観では65歳くらいのおじいちゃん というイメージでした。
それが今なら45歳は元気ハツラツ オロナミンC(笑)
奥の細道 から戻ってあちこちの句会に顔を出したり弟子を育てたりしていま
したが、ある日 生まれ故郷の伊賀上野に
お墓参りを兼ねて帰郷、帰りは奈良を見物して大坂に戻って疲れがあったまま
斯波園女(弟子ですかね) の句会に顔を出しました。
芭蕉は そこで出された料理で中毒に罹り (この死因も諸説ありましたが具体的に病名があったのを載せました)介抱の効も無く十月十二日に
旅に病んで 夢は枯れのを 駆け巡る
を辞世の句としてその生涯を閉じました。