車の形をした煙草入れ、ブリキのおもちゃ(玩具)と自動車グッツのコレクション。

シガレットケースと呼ばれる車型のタバコ入れ、ブリキの玩具、貴重、珍品の車グッツを公開

1960年初代ブルーバード311の本カタログ

2013年03月07日 10時51分01秒 | 車のカタログ









石原裕次郎の「栄光への5000キロ」、
サファリラリーの優勝などで
有名だったブルーバードも21世紀初頭にその名前の
車は姿を消しました。
このカタログは、初版ではないようですが、
ブルーバード311が登場した頃のカタログです。
この頃の車は、皆ダルマのようにずんぐりしていました。

裕次郎の映画では510クーペが使われていましたが、
サファリラリーで優勝した車は、
2代目のブルーバード411でした。
その後、レースはスカイライン、
ラリーはブルーバードと棲み分けをしました。
フェアレディーZは、どちらの競技でも見られました。


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あのケンとメリーの若さあふれる日産プリンス東京です

2013年02月27日 09時48分56秒 | 車のカタログ




このカタログに当時販売されていた
ニッサンプリンス・スカイラインの
グッツが沢山載っています。

「ディレクタチェア」「簡易ベッド」
「観葉植物」「コーヒードリッパー」「アディダス風スポーツバック」
等でその頃流行っていた物が分かります。


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日産(ニッサン) ダットサン シルビア1600クーペのチラシCSP311

2013年02月22日 09時51分25秒 | 車のカタログ








初代シルビア1600クーペのチラシ。299×244mm

私の子供の頃に憧れていたニッサンシルビア1600クーペ
CSP311です。
長森中学校の時代に、この車が好きで
車軸にベアリングが付いた三共シルビアのレーシングカー
(その頃は、スロットカーとは言わなかった)
を購入して、加納にあるコースに行ったり、
金華山の中腹にあったボーリング場に併設されていた
コースで遊びました。(名前は忘れました)
ただこの車は、他のスロットカーより車高が高く
コーナリングで曲がりきれず、よく吹っ飛びました。
友達の車と競争するために、レーシングタイプの
もう1台も持っていました。


Nissan SILVIA
SUツインキャブ付R型1600CC
OHVエンジン
ポルシェのような4速フルシンクロのトランスミッション

チラシに
CRISP LOOK と書いてあるので調べたら
きびきびした、さわやかなイメージ らしいです。


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第2回日本グランプリで優勝時のスカイライン2000GTプリンス モーターガイド

2012年12月18日 09時34分55秒 | 車のカタログ










残念ながら、この写真は無断の借り物で、箱は持っていません。
ムーンアイズ ピンストライパー "ワイルドマン 石井"の長話


1964年東京オリンピックの年の5月2日と3日に
鈴鹿サーキットで決勝レースが行われました。
この第2回日本グランプリ自動車レース大会で活躍したプリンス勢が載っている
プリンスモーターガイドです。
プリンス自動車のスカイライン2000GTが7台参加して
生沢徹のスカイラインGTが式場壮吉の乗ったポルシェ・904を
1度だけ抜いて先頭に立った場面から「スカイライン伝説」が誕生しました。

プリンス優勝と書いてあるカタログは見た事がありませんが、
大盛屋のミニカープリンススカイライン、グロリアに
プリンス優勝と書いてあるのは、見たことがあります。
それにしても、この54B以降にスカイラインは
人気車種となりました。



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プリンススカイライン2000GT北欧調のカタログ

2012年12月13日 22時28分10秒 | 車のカタログ






PRINCE SKYLINE 2000GT
北欧調GRAND TOURINGーCAR
と書かれたパンフレットです。

フロントグリルが、通常見かける54Bのものではありません。
前期物でしょうか?
第2回日本グランプリ出場の2000GTは、このグリルで
私はこのタイプが好きです。
このツートンカラーの車は、ミニカーとかでも
よく見かけます。




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伝説の3代目日産プリンス スカイラインのカタログ 2000GT-R(PGC10等) 箱スカ

2012年11月14日 09時29分05秒 | 車のカタログ














1966年にプリンス自動車工業は日産自動車に吸収合併がなされ、
スカイライン1500が、
合併後「日産スカイライン」として1968年に発表されました。
C10型スカイラインは「ハコスカ」という名前で現在でも親しまれています。
宣伝は「ダイナミックファミリーセダン」、「愛のスカイライン」でした。
そして初代2000GTRは、1969年の登場でした。
1970年年に4ドア(PGC10)から2ドアハードトップ化(KPGC10)して
より2000GTRの印象を良くしました。
箱スカ(ハコスカ)GT-Rは専用カタログが無さそうです。




今回纏めて譲って頂いたので、この頃のカタログをここに載せました。

カタログには、R-380も載せられ、暗に2000GT-Rのエンジンは
R380のエンジンをデチューンしたと見せています。

その後、闘わざる2代目GT-R(KPGC110)が1973年に出現し、
スカイライン2000GT-Rの伝説は、ここで終わりました。


NISSAN SKYLINE HARD TOP
1800 2000GT 2000GT-X 2000GT-R


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F-1グランプリ ホンダF-1と共に 1963~1968 中村良夫 三樹書房

2012年09月18日 12時23分26秒 | 車のカタログ











<<ホンダF1 Wiipediaより>>
F-1グランプリ ホンダF-1と共に
1963~1968 中村良夫 三樹書房
です。

同年7月のドイツGP(ニュルブルクリンク)でデビュー。
翌1965年第10戦メキシコGPでリッチー・ギンサーが
念願の初優勝を果たすが、
これは1.5Lエンジン時代のF1最終戦での勝利であると同時に、
その後F1に参加したタイヤメーカーの中では
最多の368勝をあげることになるグッドイヤーの初勝利でもあった。

犠牲と困難を乗り越えて辿り着いた勝利であったが、
日本国内のテレビのニュースで扱われた際に、
当時の事情からクレームが多数寄せられる結果となった。

1966年に大幅なレギュレーションの改正が行われ、
エンジンの排気量がそれまでの1.5Lから倍の3.0Lになった。
ホンダはこのレギュレーションに対応するべく
新しいV型12気筒エンジンの開発を行ったが、
既存のエンジンを結合したり、
スポーツカーレースのカテゴリで使っていたエンジンを
流用した他のチームと比べると、大幅に出遅れた。
結局このシーズンは終盤のイタリアでようやくエンジンが完成して参戦した。


イタリアでの劇的なレースを制したRA300。
このマシンはサーティースの仲介によってローラがシャーシーの制作に加わった。
1967年にはジョン・サーティースがチームに加入した。
1964年のワールドチャンピオンの加入はチームに大きな力を与えた。
このシーズンのドライバーはサーティース1人だけだったが、
彼はホンダのマシンで1位1回、
3位1回と2回表彰台に昇り20ポイントを獲得、
コンストラクターズランキング4位につけた。
特に優勝したイタリアGPは2位のジャック・ブラバムに対して
僅か0.2秒差での勝利で、
この1967年の成績が第1期ホンダの最高成績となった。

1968年のワークスマシーンは昨シーズンサーティースが
イタリアで劇的な勝利をもたらしたRA300の進化版RA301であった。
一方これとは別に空冷エンジンを搭載したRA302が制作され、
この年のフランスGPに持ち込まれたが
これは悲劇的な結果を招くことになった。
空冷エンジンを搭載したRA302はエンジンを冷却
するラジエータが無い分コンパクトであったが、
やはり空冷ではエンジンの冷却に問題があり、
直ぐにオーバーヒートの症状を示すエンジンであった。
RA302はフランスGPにスポット参戦したジョー・シュレッサーによって
ドライブされる事になった。シュレッサーは、
雨の中スタートした決勝レース2周目でスピンし、
マシンはコースを飛び出して激しく炎上した。
炎上するマシンの中に取り残されたシュレッサーは焼死した。

この事故の後、ホンダはF1を撤退するのではないかとささやかれ始めた。
この頃社会問題になっていた大気汚染に対する
市販車用低公害型エンジンの開発を理由として、
結局1968年シーズン終了後F1活動休止を発表した。



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プリンス モーターガイド に載っているR380 とエブロ1/43 R-380

2012年09月04日 10時33分10秒 | 車のカタログ

R380のスピード記録を達成した昭和40年10月発行のプリンス自動車モーターガイド(カタログ)です。




R380スピード記録
1965年10月6日
第3回日本グランプリ中止で目的を失ったプリンスR380は国内初の挑戦である速度記録に挑戦
52周目バンク出口でタイヤバースト クラッシュ ~中止
ドライバーに怪我は無かったが以降にタイムトライアルを延期

1965年10月14日
プリンスR380 再度 速度記録に挑戦
FIAに谷田部が公認されていなかったため日本新記録に留まる。6種目日本新記録 ドライバー杉田幸郎


1967年10月
ボディスタイルを刷新(R380A-II)。
茨城県筑波郡谷田部町にあった自動車高速試験場テストコースにて7つの世界速度新記録を樹立した。



エブロ PRINCE R380 SPEED TRIAL&プリンス自動車モーターガイドで、
プリンスR380が堂々6国内記録を樹立した時のスピードトライアル仕様です。

日産プリンス スカイライン 2000GT
R-380 R-381 R-382





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1971年世界のクラシックカー(ハーラーズコレクション)

2012年02月24日 10時58分26秒 | 車のカタログ
1971年世界のクラシックカー


圧巻のブガッティロワイヤル




1971年に日本で公開された世界のクラシックカーフェスティバルの
プログラム及び展示車のカタログです。
当時日本を回ったみたいですが、名古屋では吹き上げホール
だったそうです。
1899 ド・ディオン・ブートン トライアングル
1902 オ-ルズモビル ランナバウト R
1903 パッカード ツーリング F
1938 ロールスロイス セダンカ・ド・ビル ファントムⅢ
とか名車が30台です。

出品者は、ハラーズ・オートモービル・コレクションです。
「ハラーズ・オートモービル・コレクション」は最初には2台の車を展
示した事から始まり、現在は1894年からの歴史的な名車が
1,000台以上展示されています。
ただのコレクションではなく、
可能な限り新品同様に修理されているのが自慢だそうです。
確かカーグラフィックが主催だったと思います。


1971
WORLD CLASSIC CAR FESTIVAL
presentted by
harrah's automobile collection


(1971/03/04) WORLD CLASSIC CAR FESTIVAL
1971年にハラーズ・コレクションの一部を日本で公開した時の図録




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ニッサンシルビアS11のカタログ

2011年09月27日 10時03分31秒 | 車のカタログ
日産シルビアS11のカタログです。

日産・シルビア(SILVIA)は、
日産自動車で生産されていた2ドアノッチバックタイプのクーペ型自動車です。
初代シルビアは、SP310フェアレディーと同じシャーシーを持ち、
心臓部も一緒でした。
デビューは、オリンピックが開催された翌年で、
日本中が大きく発展している時で、日本にもこんな
ラグジュアリーカーがあるんだと見せつけるような車でした。
さて、今回のカタログは、初代から10を経過して、
日産のイメージカーとして1975年に発売されました。
B210型サニーをベースとしていましたが、何とロータリーを
搭載しようという企画があったそうです。
個性あるシルビアの時代は、ここまででそのあと7代目まで
続いたそうです。


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