車の形をした煙草入れ、ブリキのおもちゃ(玩具)と自動車グッツのコレクション。

シガレットケースと呼ばれる車型のタバコ入れ、ブリキの玩具、貴重、珍品の車グッツを公開

ザ・ピーナッツ ラストライブ ポスター付き

2012年09月26日 09時23分44秒 | 深酒がすぎてしまう








子供の頃に強烈なイメージを与えてくれたザ・ピーナッツの歌を
聴くためこのレコードを探しました。
今では聴く機械を持っていないので、こちらの
MP3に落とせるプレーヤーも探しました。
いまだに牛乳石鹸提供シャボン玉ホリデーのラストシーンで
クレージーキャッツのハナ肇が肘鉄を食らっている所、植木等の
「お呼びでない、こりゃまた失礼」の場面が思い出されます。

MP3にはしないでレコードの針を落として、音楽を聴くと言う行為が
ノスタルジックでとてもいいです。
YouTubeの音楽は、聞けるが重みがありません。


アプリケーションテクノロジー株式会社

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

超お宝 1968年第5回日本グランプリレース参加章の証・カーバッジ JAF

2012年09月24日 09時26分43秒 | 車グッツ




1968年にJAFが主催し、
フジ・スピードウェイで行われた第5回日本グランプリの参加賞です。
この回のグランプリでは、
NISSAN R381ウイング付きで北野元優勝がしました。

昨夜、この第5回グランプリレースのレコード(キングレコード発売)を
聞いてみた所、
場内アナウンサーが
生沢徹の乗ったポルシェカレラ10(910)が北野車と
デッドヒートして、観客が総立ちしていると言う
放送が流れていました。
暫らくすると生沢徹の乗ったポルシェカレラ10は、
1週遅れと分かったようで、観客が残念がっているのが
聞こえました。


くるま村夢工房より第5回グランプリレース


アプリケーションテクノロジー株式会社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トヨタカローラに行って来ました

2012年09月21日 10時17分05秒 | 車グッツ







何気に覗いたショールームに
初代カローラ(マイナーチェンジ?)1200が
飾ってありました。
記念撮影をしたく思わず寄ってしまいました。
その割には、私の服装は
「日産プリンス・ケンメリのTシャツ」でした。

1966年に発売した時の
日産サニーが1000CCだったのを良いことに
それより100CC多くして「余裕のカローラ」とか
言って好評を博しました。
写真のカローラは1200CCだったので、1969年頃の
モデルだと思われます。
当時リアビューでこれがカローラだと直ぐにわかりました。
それから何年かして世界一生産台数の多い車となりました。


ショールームを見渡すとキムタクが宣伝していた
カローラフィルダーもあり、コンパクトに
仕上がっていました。


E1#型
KE17


アプリケーションテクノロジー株式会社





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日の裕ちゃん スコティッシュホールドの反抗期猫です

2012年09月19日 09時12分46秒 | その他




誕生日から5ヶ月が過ぎ、結構大きくなりました。
反抗期で、冒険心溢れるスコティッシュホールドの裕ちゃんです。


Coo&RIKU

なくなったチャコちゃん


アプリケーションテクノロジー株式会社


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

F-1グランプリ ホンダF-1と共に 1963~1968 中村良夫 三樹書房

2012年09月18日 12時23分26秒 | 車のカタログ











<<ホンダF1 Wiipediaより>>
F-1グランプリ ホンダF-1と共に
1963~1968 中村良夫 三樹書房
です。

同年7月のドイツGP(ニュルブルクリンク)でデビュー。
翌1965年第10戦メキシコGPでリッチー・ギンサーが
念願の初優勝を果たすが、
これは1.5Lエンジン時代のF1最終戦での勝利であると同時に、
その後F1に参加したタイヤメーカーの中では
最多の368勝をあげることになるグッドイヤーの初勝利でもあった。

犠牲と困難を乗り越えて辿り着いた勝利であったが、
日本国内のテレビのニュースで扱われた際に、
当時の事情からクレームが多数寄せられる結果となった。

1966年に大幅なレギュレーションの改正が行われ、
エンジンの排気量がそれまでの1.5Lから倍の3.0Lになった。
ホンダはこのレギュレーションに対応するべく
新しいV型12気筒エンジンの開発を行ったが、
既存のエンジンを結合したり、
スポーツカーレースのカテゴリで使っていたエンジンを
流用した他のチームと比べると、大幅に出遅れた。
結局このシーズンは終盤のイタリアでようやくエンジンが完成して参戦した。


イタリアでの劇的なレースを制したRA300。
このマシンはサーティースの仲介によってローラがシャーシーの制作に加わった。
1967年にはジョン・サーティースがチームに加入した。
1964年のワールドチャンピオンの加入はチームに大きな力を与えた。
このシーズンのドライバーはサーティース1人だけだったが、
彼はホンダのマシンで1位1回、
3位1回と2回表彰台に昇り20ポイントを獲得、
コンストラクターズランキング4位につけた。
特に優勝したイタリアGPは2位のジャック・ブラバムに対して
僅か0.2秒差での勝利で、
この1967年の成績が第1期ホンダの最高成績となった。

1968年のワークスマシーンは昨シーズンサーティースが
イタリアで劇的な勝利をもたらしたRA300の進化版RA301であった。
一方これとは別に空冷エンジンを搭載したRA302が制作され、
この年のフランスGPに持ち込まれたが
これは悲劇的な結果を招くことになった。
空冷エンジンを搭載したRA302はエンジンを冷却
するラジエータが無い分コンパクトであったが、
やはり空冷ではエンジンの冷却に問題があり、
直ぐにオーバーヒートの症状を示すエンジンであった。
RA302はフランスGPにスポット参戦したジョー・シュレッサーによって
ドライブされる事になった。シュレッサーは、
雨の中スタートした決勝レース2周目でスピンし、
マシンはコースを飛び出して激しく炎上した。
炎上するマシンの中に取り残されたシュレッサーは焼死した。

この事故の後、ホンダはF1を撤退するのではないかとささやかれ始めた。
この頃社会問題になっていた大気汚染に対する
市販車用低公害型エンジンの開発を理由として、
結局1968年シーズン終了後F1活動休止を発表した。



アプリケーションテクノロジー株式会社

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プリンス モーターガイド に載っているR380 とエブロ1/43 R-380

2012年09月04日 10時33分10秒 | 車のカタログ

R380のスピード記録を達成した昭和40年10月発行のプリンス自動車モーターガイド(カタログ)です。




R380スピード記録
1965年10月6日
第3回日本グランプリ中止で目的を失ったプリンスR380は国内初の挑戦である速度記録に挑戦
52周目バンク出口でタイヤバースト クラッシュ ~中止
ドライバーに怪我は無かったが以降にタイムトライアルを延期

1965年10月14日
プリンスR380 再度 速度記録に挑戦
FIAに谷田部が公認されていなかったため日本新記録に留まる。6種目日本新記録 ドライバー杉田幸郎


1967年10月
ボディスタイルを刷新(R380A-II)。
茨城県筑波郡谷田部町にあった自動車高速試験場テストコースにて7つの世界速度新記録を樹立した。



エブロ PRINCE R380 SPEED TRIAL&プリンス自動車モーターガイドで、
プリンスR380が堂々6国内記録を樹立した時のスピードトライアル仕様です。

日産プリンス スカイライン 2000GT
R-380 R-381 R-382





アプリケーションテクノロジー株式会社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする