<<ホンダF1 Wiipediaより>>
F-1グランプリ ホンダF-1と共に
1963~1968 中村良夫 三樹書房
です。
同年7月のドイツGP(ニュルブルクリンク)でデビュー。
翌1965年第10戦メキシコGPでリッチー・ギンサーが
念願の初優勝を果たすが、
これは1.5Lエンジン時代のF1最終戦での勝利であると同時に、
その後F1に参加したタイヤメーカーの中では
最多の368勝をあげることになるグッドイヤーの初勝利でもあった。
犠牲と困難を乗り越えて辿り着いた勝利であったが、
日本国内のテレビのニュースで扱われた際に、
当時の事情からクレームが多数寄せられる結果となった。
1966年に大幅なレギュレーションの改正が行われ、
エンジンの排気量がそれまでの1.5Lから倍の3.0Lになった。
ホンダはこのレギュレーションに対応するべく
新しいV型12気筒エンジンの開発を行ったが、
既存のエンジンを結合したり、
スポーツカーレースのカテゴリで使っていたエンジンを
流用した他のチームと比べると、大幅に出遅れた。
結局このシーズンは終盤のイタリアでようやくエンジンが完成して参戦した。
イタリアでの劇的なレースを制したRA300。
このマシンはサーティースの仲介によってローラがシャーシーの制作に加わった。
1967年にはジョン・サーティースがチームに加入した。
1964年のワールドチャンピオンの加入はチームに大きな力を与えた。
このシーズンのドライバーはサーティース1人だけだったが、
彼はホンダのマシンで1位1回、
3位1回と2回表彰台に昇り20ポイントを獲得、
コンストラクターズランキング4位につけた。
特に優勝したイタリアGPは2位のジャック・ブラバムに対して
僅か0.2秒差での勝利で、
この1967年の成績が第1期ホンダの最高成績となった。
1968年のワークスマシーンは昨シーズンサーティースが
イタリアで劇的な勝利をもたらしたRA300の進化版RA301であった。
一方これとは別に空冷エンジンを搭載したRA302が制作され、
この年のフランスGPに持ち込まれたが
これは悲劇的な結果を招くことになった。
空冷エンジンを搭載したRA302はエンジンを冷却
するラジエータが無い分コンパクトであったが、
やはり空冷ではエンジンの冷却に問題があり、
直ぐにオーバーヒートの症状を示すエンジンであった。
RA302はフランスGPにスポット参戦したジョー・シュレッサーによって
ドライブされる事になった。シュレッサーは、
雨の中スタートした決勝レース2周目でスピンし、
マシンはコースを飛び出して激しく炎上した。
炎上するマシンの中に取り残されたシュレッサーは焼死した。
この事故の後、ホンダはF1を撤退するのではないかとささやかれ始めた。
この頃社会問題になっていた大気汚染に対する
市販車用低公害型エンジンの開発を理由として、
結局1968年シーズン終了後F1活動休止を発表した。
アプリケーションテクノロジー株式会社