ニッサンセドリックスペシャル6のシガレットケースです。説明はWikipediaから引用。
1965年10月 発売。前モデルのアメリカンスタイルとは打って変わってピニンファリーナデザインのヨーロピアンスタイルとなった。フローイングラインと呼ばれるフロントからリアにかけて下がっていくラインや、下すぼまりのCピラーに特徴があった。ピニンファリーナのデザインが採用されたため、このセドリックのために日本でデザインされていたボディスタイルは拡大の上プレジデント150型に流用された。1968年のマイナーチェンジでは、後の230型に続くアメリカンスタイルに大幅な変更が行われた。歴代セドリックでは唯一3ナンバー普通車の設定が存在しないモデルである。発売時の価格は115万円(スペシャル6)。警察向けとしてH30型、Y40型搭載のPatrolが存在する。
ボディバリエーションは4ドアセダンとワゴン・バン。
エンジンはH20型4気筒OHV2000cc(92ps) 、J20型6気筒OHV2000cc(100ps)、スペシャル6のみはL20型OHC6気筒ツインキャブ2000cc(115ps、後に130ps)が搭載された。J20型は68年のマイナーチェンジでL20型6気筒シングルキャブ2000cc(115ps)に変更となる。 H30型直列6気筒OHV3000cc、Y40型V型8気筒4000cc。
足回りは前輪ウィッシュボーン・コイル、後輪リーフスプリング。後に長く使われる事になる3N71型フルオートマチックトランスミッションはこのモデルに初搭載された。
グレード構成は当初は4気筒の130型にDx、6気筒のP130型にStd6とカスタム6、H130型スペシャル6で、後に130S型Std 、P130型Dx6、P130S型パーソナル6、パーソナルDx、H130型スペシャルGLが追加された。
1965年10月 発売。前モデルのアメリカンスタイルとは打って変わってピニンファリーナデザインのヨーロピアンスタイルとなった。フローイングラインと呼ばれるフロントからリアにかけて下がっていくラインや、下すぼまりのCピラーに特徴があった。ピニンファリーナのデザインが採用されたため、このセドリックのために日本でデザインされていたボディスタイルは拡大の上プレジデント150型に流用された。1968年のマイナーチェンジでは、後の230型に続くアメリカンスタイルに大幅な変更が行われた。歴代セドリックでは唯一3ナンバー普通車の設定が存在しないモデルである。発売時の価格は115万円(スペシャル6)。警察向けとしてH30型、Y40型搭載のPatrolが存在する。
ボディバリエーションは4ドアセダンとワゴン・バン。
エンジンはH20型4気筒OHV2000cc(92ps) 、J20型6気筒OHV2000cc(100ps)、スペシャル6のみはL20型OHC6気筒ツインキャブ2000cc(115ps、後に130ps)が搭載された。J20型は68年のマイナーチェンジでL20型6気筒シングルキャブ2000cc(115ps)に変更となる。 H30型直列6気筒OHV3000cc、Y40型V型8気筒4000cc。
足回りは前輪ウィッシュボーン・コイル、後輪リーフスプリング。後に長く使われる事になる3N71型フルオートマチックトランスミッションはこのモデルに初搭載された。
グレード構成は当初は4気筒の130型にDx、6気筒のP130型にStd6とカスタム6、H130型スペシャル6で、後に130S型Std 、P130型Dx6、P130S型パーソナル6、パーソナルDx、H130型スペシャルGLが追加された。
1968年第5回日本グランプリのレコードです。
1968年の日本グランプリは、まさにTETSU IKUZAWAのためのレースだったと言っていいのではないだろうか。
メインの第5回日本グランプリレースはもとより、セミファイナルと言うべきフォーミュラカーによる「日本スピードカップレース」でもTETSUの活躍は、他のいかなるドライバーよりも抜きん出ていたと思う。
メインレースでは、自社製でないシボレーV8 5500ccの大排気量エンジンを武器に、ニッサンが前年の仇を返したという結果に終わったが、シボレーエンジンの半分以下の2000ccエンジンで挑戦したTETSUのポルシェカレラ10は、優勝した北野 元のニッサンR381にわずか1周の差で勝利を逃した。逃したというよりもよく1周の差で2位になったと言うべきかも知れない。
そして、メインレースが始まる前に行なわれたフォーミュラカーレース「日本スピードカップ」にもTETSUは、急遽、タキ・レーシング所有の“ブラウン・ベア・スペシャル(ブラバムF-3/ロータスツインカム1600cc)”で出場。全30周レースの内、27周目にガス欠になるまでTETSUは、三菱ファクトリーをリードし続けた。結果的に、ピットイン時にエンジンを切らなかったために失格となるのだが、プライベートマシンでのトップ独走劇は、メインレース以上のインパクトを観客に見せつけたのだった。
1968年の日本グランプリは、まさにTETSU IKUZAWAのためのレースだったと言っていいのではないだろうか。
メインの第5回日本グランプリレースはもとより、セミファイナルと言うべきフォーミュラカーによる「日本スピードカップレース」でもTETSUの活躍は、他のいかなるドライバーよりも抜きん出ていたと思う。
メインレースでは、自社製でないシボレーV8 5500ccの大排気量エンジンを武器に、ニッサンが前年の仇を返したという結果に終わったが、シボレーエンジンの半分以下の2000ccエンジンで挑戦したTETSUのポルシェカレラ10は、優勝した北野 元のニッサンR381にわずか1周の差で勝利を逃した。逃したというよりもよく1周の差で2位になったと言うべきかも知れない。
そして、メインレースが始まる前に行なわれたフォーミュラカーレース「日本スピードカップ」にもTETSUは、急遽、タキ・レーシング所有の“ブラウン・ベア・スペシャル(ブラバムF-3/ロータスツインカム1600cc)”で出場。全30周レースの内、27周目にガス欠になるまでTETSUは、三菱ファクトリーをリードし続けた。結果的に、ピットイン時にエンジンを切らなかったために失格となるのだが、プライベートマシンでのトップ独走劇は、メインレース以上のインパクトを観客に見せつけたのだった。