美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

秘密情報保護法成立は、ドラマの幕開けに過ぎない (イザ!ブログ 2013・12・8 掲載)

2013年12月28日 02時23分41秒 | 政治
秘密情報保護法成立は、ドラマの幕開けに過ぎない

小浜ブログ「特定秘密保護法案について」の当ブログへの転載をめぐって、昨日私は、小浜氏に次のメールを送りました。

私自身、参考になりそうな論考を集めて、当法案について書こうかどうか検討していた段階でした。小浜さんの論考の登場で、肩の荷が軽くなったような気がします。おっしゃりたいこと、ごもっともとうけたまわりました。当法案の必要性に関しては、まともな頭脳の持ち主ならば首肯せざるをえないものと思われます。それを受け入れたうえで、はじめて当法案の不備や危険性の防止をめぐっての踏み込んだ真摯な議論ができるのではないかと思われます。だから、当法案の不備や危険性を観念的に言挙げして、頑なに反対するという朝日新聞などの姿勢は、この法案の不備や危険性を、我が事として真剣に考えているとは到底思えません。その無責任さには、腹を据えかねています。もともと、経済政策や消費増税やTPPの議論に関して、朝日新聞などは、いつも日銀・財務省・経産省べったりのドレイ言説を垂れ流しているのですから、当法案にまつわって言論の自由をことさらに主張するなどチャンチャラおかしい。ヘソが茶を沸かします。国会を取り巻く「法案反対、ドン・ドン・ドン」の連中に至っては、バカバカしすぎて、批判の言葉さえ見つかりません。

小浜氏は、当論考のなかで「この人たち(特定秘密保護法案に反対する民主主義者たち――引用者注)は、いつもそうですが、外交・国防にかかわる政治問題を、その趣旨もわきまえずに国内問題としてしかとらえません」と言っています。私は、その言葉が脳裏にこびりついてしまいました。

では、特定秘密保護法の趣旨と何でしょうか。それをきちんと理解するには、視野を広くしなければなりません。法の枠内で判断するだけでは、当該法の真の立法趣旨は見えてこないのです。

国の安全や外交にからむ機密情報の漏洩(ろうえい)を防ぐため、というのが差し当たりの答えとなるでしょう。より具体的には、米国などから機密情報の提供を受けるために、秘密保護法制を強化するのが真の狙いなのでしょう。また、「スパイ天国」という汚名をそそぐことも、おそらく考えられていることでしょう。

ではなにゆえ、米国などから機密情報の提供を受けるために、秘密保護法制を強化する必要があるのでしょうか。

ここで私たちは、中共の覇権主義の脅威の問題に行き着きます。尖閣問題や、最近の防空識別圏問題に見られるように、中国による、わが国の領土・領空・領海に対する執拗な、手を変え品を変えての攻撃は、おさまるどころかますますはなはだしくなっています。これが短期間で止むことは差し当たり期待しない方がいいでしょう。言いかえれば、対中共においては、いわゆる非常時の常態化を、日本は覚悟しなければならないのです。

中共が執拗に仕掛けてくる軍事戦、情報戦に対処し、わが国の安全保障体制をゆるぎないものとして再構築しそれを維持するためには、現状では、アメリカの情報収集能力に多くを頼らざるをえません。日本の情報管理能力に対する、アメリカの信頼を高めて、アメリカから、より機密度の高い情報を入手する必要があるのです。そこに私は、秘密情報保護法の必要性の根拠を見ます(より機密性の高い情報を着実に積み上げていくことが、実は他日の軍事的独立の確かな礎にもなります)。

要するに、特定秘密保護法案問題の核心は、国内の法律問題・憲法問題ではなくて、外交問題なのです。

特定秘密保護法案に反対する民主主義者たちは、ことごとくそこを、意図的に、あるいは単に馬鹿であるがゆえにスルーして、やれ民主主義の危機だとか、知る権利の侵害だとか、言論の自由に対する脅威だとか、果ては憲法違反だとか、美しいけれどいつかどこかで聞いたことのあるお題目を唱えてお祭り騒ぎをするばかりです。そんな皮相的で視界狭窄の理屈が説得力を持たないのは当たり前のことです。

私は、朝日新聞の論調に関して、別に極端なことをあえて言おうとしているわけではありません。次の社説をお読みいただければ、上記の批判が妥当であることをお分かりいただけるのではないかと思われます。全文引きましょう。

(社説)秘密保護法成立 憲法を骨抜きにする愚挙
2013年12月7日

特定秘密保護法が成立した。その意味を、政治の仕組みや憲法とのかかわりという観点から、考えてみたい。

この法律では、何を秘密に指定するか、秘密を国会審議や裁判のために示すか否かを、行政機関の長が決める。行政の活動のなかに、国民と国会、裁判所の目が届かないブラックボックスをつくる。その対象と広さを行政が自在に設定できる。都合のいい道具を、行政が手に入れたということである。領域は、おのずと広がっていくだろう。憲法の根幹である国民主権と三権分立を揺るがす事態だと言わざるをえない。近代の民主主義の原則を骨抜きにし、古い政治に引き戻すことにつながる。

安倍政権がめざす集団的自衛権行使の容認と同様、手続きを省いた「実質改憲」のひとこまなのである。

■外される歯止め
これまでの第2次安倍政権の歩みと重ね合わせると、性格はさらにくっきりと浮かび上がってくる。

安倍政権はまず、集団的自衛権に反対する内閣法制局長官を容認派にすげ替え、行政府内部の異論を封じようとした。次に、NHK会長の任命権をもつ経営委員に、首相に近い顔ぶれをそろえた。メディアの異論を封じようとしたと批判されて当然のふるまいだ。そのうえ秘密保護法である。

耳障りな声を黙らせ、権力の暴走を抑えるブレーキを一つひとつ外そうとしているとしかみえない。

これでもし、来年定年を迎える最高裁長官の後任に、行政の判断に異議を唱えないだろう人物をあてれば、「行政府独裁国家」への道をひた走ることになりかねない。

衆参ねじれのもとでの「決められない政治」が批判を集めた。だが、ねじれが解消したとたん、今度は一気に歯止めを外しにかかる。はるかに危険な道である。急ぎ足でどこへ行こうとしているのだろう。

安倍政権は、憲法の精神や民主主義の原則よりも、米国とともに戦える体制づくりを優先しているのではないか。


中国が力を増していく。対抗するには、米国とがっちり手を組まなければならない。そのために、米国が攻撃されたら、ともに戦うと約束したい。米国の国家安全保障会議と緊密に情報交換できる同じ名の組織や、米国に「情報は漏れない」と胸を張れる制度も要る……。

安倍首相は党首討論で、「国民を守る」ための秘密保護法だと述べた。その言葉じたい、うそではあるまい。

■権力集中の危うさ
しかし、それは本当に「国民を守る」ことになるのか。

政府からみれば、説明や合意形成に手間をかけるより、権力を集中したほうが早く決められる、うまく国民を守れると感じるのかもしれない。けれども情報を囲い込み、歯止めを外した権力は、その意図はどうあれ、容易に道を誤る。

情報を公開し、広く議論を喚起し、その声に耳を傾ける。行政の誤りを立法府や司法がただす。その、あるべき回路を閉ざした権力者が判断を誤るのは当然の帰結なのだ。

何より歴史が証明している。戦前の日本やドイツが、その典型だ。ともに情報を統制し、異論を封じこめた。議会などの手続き抜きで、なんでも決められる仕組みをつくった。政府が立法権を持ち憲法さえ無視できるナチスの全権委任法や、幅広い権限を勅令にゆだねた日本の国家総動員法である。それがどんな結末をもたらしたか。忘れてはならない。

■国会と国民の決意を
憲法は、歴史を踏まえて三権分立を徹底し、国会に「唯一の立法機関」「国権の最高機関」という位置づけを与えた。その国会が使命を忘れ、「行政府独裁」に手を貸すのは、愚挙というほかない。

秘密保護法はいらない。国会が成立させた以上、責任をもって法の廃止をめざすべきだ。それがすぐには難しいとしても、弊害を減らす手立てを急いで講じなければならない。

国会に、秘密をチェックする機関をつくる。行政府にあらゆる記録を残すよう義務づける。情報公開を徹底する。それらは、国会がその気になれば、すぐ実現できる。

国民も問われている。こんな事態が起きたのは、政治が私たちを見くびっているからだ。国民主権だ、知る権利だといったところで、みずから声を上げ、政治に参加する有権者がどれほどいるのか。反発が強まっても、次の選挙のころには忘れているに違いない――。そんなふうに足元をみられている限り、事態は変わらない。国民みずから決意と覚悟を固め、声を上げ続けるしかない。


朝日新聞を擁護したい方は、「上記の赤字の箇所でちゃんと安全保障問題に触れているではないか」と言いたくなるのではないでしょうか。しかし、それらの言葉は、当法律の必要性を著しく矮小化していると断じざるをえません。その理由を列挙しましょう。

①誰も「中国の力が増していく」ことそれ自体を問題にしていません。中共の覇権主義的な言動や他国の主権を侵害する行動がその強度を増していることを問題にしているのです。

②「対抗」というのは、穏当ではありませんね。中共の一方的な攻撃に、日本側はやむをえず冷静に対処しようとしているだけです。

③「米国が攻撃されたら、ともに戦う」とは、ちょっとズレていませんか。私は、中共による日本の主権侵害の言動を問題にし、それを脅威として認識すべきだと言っているだけです。ここで集団的自衛権の議論を持ち出すのは、いわゆる「まぜっかえし」というやつで、ものごとの本質を考察する邪魔になるだけです。「夫婦喧嘩論法」を差し挟むなよって。

日本政府の姿勢を矮小化・危険視するための、これだけの印象操作を施したならば、これを読んだ者はだれでも「特定秘密保護法は、過剰で不当な措置だ」と思うに決まっていますね。それは、当法案の必要性にまともに触れていないのと同じことです。だから私は、″特定秘密保護法案に反対する民主主義者たちは、ことごとく当法案の必要性の直視をスルーしている″と言っているのです。芸能関係者の反対声明なんて、雰囲気だけでものを言っているだけ。ひどすぎて、読んだ者の目が潰れそうです。よせばいいのに。

それに付け加えてちょっとだけ原理的なお話をすれば、国家主権という現実と、国民主権という憲法の理念とは、元来、あっち立てばこっち立たずの拮抗関係にある、という側面があります。国民主権を貫き通せばそれで万事オーケーというほどに政治は簡単なものではないのです。特に、安全保障という国民主権の現実的土台を揺るがす事態が生じた場合、国民主権原理主義は明らかに無効であります。

私見はこれくらいにしておいて、以下に、主に安全保障との関連から特定秘密保護法を論じた鍛冶俊樹氏の論考を引いておきます。今のところ私は、中国情勢に関しては、石平氏と鍛冶氏の論考をすりあわせれば、おおよそ妥当な見解を得られるのではないかと思っています。

軍事ジャーナル【12月3日号】特定秘密保護法案
鍛冶俊樹

現在、審議中の特定秘密保護法案について、国連人権高等弁務官のピレイ女史が反対の意向を示したという。国会で審議中の法案について、国会議員でも日本国民でもない国際機関の職員が、国会に招致されたわけでもないのに反対するのは、日本国民の権利と民主主義を蹂躙する暴挙であろう。

ピレイ女史は日本の人権状況を批判しても中国や北朝鮮の人権状況は批判しないという奇妙な人権高等弁務官である。国連人権高等弁務官は国連人権理事会の事実上の事務局長であるが、この人権理事会は発足当初から中国が理事国入りしており、ロビー活動を繰り広げている。今回のピレイ発言の背後にも中国ロビイストがいると見て間違いあるまい。

中国が水面下で特定秘密保護法阻止に動いているのは確実で、その証左が11月24日に在日中国大使館が在日中国人に緊急連絡先を呼び掛けた件であろう。マスコミなどでは前日に中国が防空識別圏の設定を宣言した事との関連が云々されているが、むしろ翌日に衆院特別委員会を通過した同法案を意識したものと見た方がいい。

つまりこの呼び掛けは「もしこの法案が成立したら、在日中国人もいつ何どきスパイとして逮捕されるかもしれない。そうした危険がある場合、大使館から直ちに連絡をするから、連絡先を登録せよ」という趣旨であろう。

もちろん同法案はスパイ防止法ではないので、実はその可能性はないのだが、中国ではスパイと疑われた段階で逮捕されるのが普通だから、「日本でもそんな法律が成立するに違いない」と信じてしまう。「ならば同法案の成立を何とか阻止しなくてはならない」とスパイでもない普通の在日中国人が一層阻止活動に力を入れる訳である。
                *
さてこの法案の本当の狙いは大臣からの情報流出を防ぐことである。一般の公務員は情報を漏らせば罰せられるのだが、現在の法制では大臣や国会議員はほとんど罰せられない。「大臣や国会議員のような立派な人は国家機密を外国に売るような真似をする筈がない」との性善説に基づいている。

だが実際の国会議員の中には、「日本の国家機密を中国に積極的に知らせた方が日中友好上、いい」と信じて疑わない親中派が少なくない。また大臣になるような大物政治家には「何でも腹蔵なく話すのが人徳だ」と勘違いしている人もままいる。

スノーデン事件は米国が通信傍受をしていることを改めて世界に知らしめたが、インターネットでは通信傍受は容易なので、米国に限らずサイバー軍を持つ国は大抵やっている。当然、在日中国大使館と中国本土との通信を米国は傍受している。

通信内容は暗号化されているが、米国は優秀な暗号技術をもっているから、解読してみると何とそこには、昨日米国政府が日本政府に伝えた極秘情報が記されているではないか。これで「日米共同して尖閣を守りましょう」などと日本政府が提案しても米国にしてみれば危なっかしくて乗れたものではない。

かくして大臣の情報漏洩の特権を制限するために同法案が提出されたわけだが、永田町周辺では反対運動が過熱しているらしい。大臣の特権を擁護する市民運動というのも奇妙なものである。


今回の秘密情報保護法成立は、中共との安全保障をめぐる長い長い過酷なドラマの幕開けに過ぎないのです。 「気分は反権力」をやっていられるような余裕はないのです。

*念のために申し上げておきます。私は、当法の成立を是認する立場で発言しておりますが、そこには、安倍政権擁護のモチベーションはまったくありません。いまの私は、安倍政権に対して是々非々のスタンスで臨んでいます。政治の世界に関して、いまいちばん望んでいるのは、骨太の現実認識に立脚し、経世済民のハートにあふれた健全野党の登場です。
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小浜逸郎氏  特定秘密保護法案について  (イザ!ブログ 2013・12・6 掲載)

2013年12月28日 01時37分16秒 | 小浜逸郎
*以下は、小浜逸郎氏のブログ「ことばの闘い」からの転載です。

特定秘密保護法案について

                                  小浜逸郎




今これを書いている時点(12月6日午後)で、特定秘密保護法案は、参議院国家安全保障特別委員会を通過し、本会議での可決を待つ状態になっています。

この法案を巡って、中央の政局・報道機関を中心にだいぶ世間が騒がしくなっているようなので、私はここ数日、この問題について自分なりの考えをまとめようと思ってきました。現時点での私見を述べます。

この法案が熱い議論を呼び込む理由は、簡単に言ってしまえば、国家中枢の一部が、安全保障上重要な秘密の漏洩を防止することを理由に、特定秘密として指定された情報を国民に流さず、しかもその秘密の従事者が保護義務を破った場合には、10年以下の懲役という刑事罰に処せられる点にあるでしょう。

この法案の成立に反対する勢力は、「国民の知る権利・報道の自由が侵される」「民間事業者の適正評価はプライバシー侵害だ」「憲法で規定された基本的人権に違反する」「戦前の治安維持法と同じで、戦争への道に近づく」などとにぎやかに騒いでおり、今日も国会前に採決反対の人々が集まったようです。午後7時のニュースによると、主催者発表9000人とのことですが、まあ、実態はこの半分以下でしょうな。

また煽動メディア・朝日新聞は、かなり前から法案反対の一大キャンペーンを張り、社説、特集記事などにおいて、これでもかこれでもかと反対世論の形成に力を注いできました。著名人をたくさん取り込んで、その人たちに反対意見を語らせる。賛成意見はおろか、中立的な意見さえありませんし、これらの著名人のなかには、法案の趣旨をよく理解していない人もたくさんいます。なかには、「保守系漫画家」(?)として有名な小林よしのり氏まで入っています。かつては特攻隊賛美の漫画まで描いた小林氏(私はこの点での小林氏を評価しませんが)も朝日新聞に利用されるようでは困ったものですね。

それはともかく、私はたまたま、4日の水曜日夕方、この問題についてのNHKラジオ解説番組を聴いていました。出席した「専門家」は、外交評論家の孫崎享(まごさき・うける)氏と、元防衛研究所所長の柳沢協二(やなぎさわ・きょうじ)氏。

番組では、街の声を10人分ほど拾い集めていましたが、中で年配風の男性がただ一人、「必要なんじゃないの、同盟国から情報もらえないでしょ」とまともなことを言っていたのを除いて、他の人たちは、「なんか知る権利が侵されるようで怖いですね」とか「プライバシーが侵害されないかな」などと毎度おなじみ、「日本人」風。

そもそも私は「街の声」などというものを信用していません。それは二つの理由からです。一つは、急ぎ足に街行く生活人にマイクを突き付けて、天下国家の大事についての深い考えが引き出せるはずがない。第二に、報道する局の意向が決まっていれば、たくさん集めた中からいくらでもその意向に都合のよい声だけを拾う操作が簡単にできます。

また同じ番組では、哲学者(?)の内田樹氏ら何人かの著名人が「特定秘密保護法案に反対する学者の会」なる会を立ち上げて、12月3日に「戦争への道を開く」という趣旨の記者会見を行ったと報じていました。「学者の会」ね。知的権威の保持者がいかにもよく考えてきたような。

ちなみに私事で恐縮ですが、この内田樹という人がいかに視野の狭いただの「サヨク」言論人でしかないか、という点について、私はいま発売中の月刊誌『正論』1月号で詳しく論じていますので、ご関心のある方は覗いてみてください。

ここまで聞いた方は、NHKのこの番組が偏向報道以外の何物でもないということにお気づきでしょう。しかしまだまだ、そのあとがあるのです。こちらのほうが問題です。

先に挙げた「専門家」の二人は、口裏を合わせたように同じことを言っていました。その要点は二つ。
①なぜ今この法案を通さなければならないかという本質的議論がなされないままに、政府は急いで通そうとしている。
②自分たちは、現役時代(それぞれ外務官僚、防衛官僚)にいろいろな機密情報に触れる機会があったが、日本に機密情報の漏洩を防ぐ法整備がなされていないからという理由で、アメリカから情報の提供を拒まれたことはない。

以上二つは、NHK司会者の誘導尋問に答えたものです。

いかがですか。

①については、自民党内にプロジェクトチームを立ち上げたのが8月ですから、たしかにそれだけを見ると、拙速との印象があるかもしれません。しかし、この法案成立を多少急がざるを得ないのは、周辺諸国、特に中国の近年における明白な侵略的意図に対する防波堤を早く築かなくてはならないからです。

先の防空識別圏の強引な設定でもわかるとおり、中国は、日米の分断によって日本の孤立化を図ろうと画策し、両国がどういう反応を示すか試しています。これからも次々と策を弄してくるでしょう。そういうときこそ、同盟国との情報の素早い共有が不可欠なのです。そうしてこの共有は、高度な機密に属しますから、けっしてダダ漏れしてしまってはならないのです。
 充分な議論を尽くしたうえで、というのは理想ですが、それは物事によります。国際環境の切迫した状況への迅速な対応が必要とされるときに当たって、ゆっくり議論を尽くしたうえで、などと学者風、評論家風ののんきなことを言っていたら、いつまでたっても政治決着がなされません。

またこの法案は、それだけとして値打ちが測られるのではなく、先に発足した国家安全保障会議(日本版NSC)と来年1月に創設される国家安全保障局とを実質的に運用させるための法的な保証の意味をもっています。この法律が整備していないと、機関だけできていてもそれを遺漏なく活用することができません。三者はセットです。だから急ぐ必要があるのです。

②についてですが、これは本気で言っているのだったらノーテンキもいいところです。外交や防衛のプロだったくせに、この人たちはなんてお人よしなんでしょう。「専門家」がこれだから、戦後日本は相変わらずの対米従属根性、奴隷根性から抜け出せないのです。

本当に日本のようなダダ漏れ国家に対して、米政府がすべての情報を提供してきたなどと信じているのでしょうか。そんなことは、情報戦争のプロである米政府はとっくに斟酌し、この程度はいいがこれはだめ、と情報を厳密に選択したうえで日本政府に提供しているに決まっています。だからといって、米政府が「あんたのところは漏洩する危険があるからこの情報は教えない」などといちいち公式見解として言うはずがないではありませんか。

公式見解としては言わなくても、それがアメリカの本音であることだけは確かです。事実、初代内閣安全保障室長の佐々淳行(さっさ・あつゆき)氏は、「私が警察庁や防衛庁に勤めていたころ、外国の情報機関から『日本に話すと2,3日後に新聞に出てしまう』と言われたことが何度もあった。……特定秘密保護法のない国に対しては、たとえ同盟国であろうと、どの国も情報をくれないし、真剣な協議もしてくれない」と述べています(産経新聞12月6日付)。その通りだと思います。

もう一つ言っておきたいこと。

東アジアの安全保障問題に直接利害を持つのは、当事国である日本であり中国であり韓国であり北朝鮮です(ロシアもか)。私たちのほうが、アメリカよりこの隣国同士の緊迫の度合い、質をよく心得ているのです。アメリカとの同盟関係はもちろん大切ですが、いまアメリカは、日中の悶着の解決にそれほど精力を注ぐだけの余裕がありません。このことは、昨日(5日)のバイデン副大統領と習近平国家主席との会談内容でも明らかですね。バイデン氏は、中国の防空識別圏の設定に対して、「懸念」を表明したにとどまり、本気で撤回を要求しませんでした。ここに日本政府が望むところとは、明らかな温度差があります。ともかく私たち自身が、いま米政府にできることとできないこととをよく見極め、アメリカ依存症から少しでも抜け出す必要があります。

さて反対派の「憲法違反」「知る権利・報道の自由・プライバシーの侵害」「戦争への道」なる主張ですが、これらは、「いつか来た道」――聞いていてうんざりですね。何がうんざりかって? 以下、箇条書きにしましょう。

①この人たちは、いつもそうですが、外交・国防にかかわる政治問題を、その趣旨もわきまえずに国内問題としてしかとらえません。中央権力のやることには、よく調べもせずに何でも反対しておけばよい、という戦後日本特有の反国家感情を吐露しているだけなのです。一般の人がマスコミに誘導されてそうなるのは仕方ないかもしれませんが、知識人や専門家がそれでは困るのです。

②今回の法案は、その要旨をよく読めば(産経新聞12月6日付に掲載されています)、知る権利やプライバシーに対する配慮もちゃんとなされています。また、刑事罰の適用に当たっては、もちろん裁判で決着をつけるわけですから、法治国家における人権が原則として守られることは当然です(その際は、裁判機関に秘密が明かされます)。さらに、秘密が特定秘密に当たるかどうかのチェック機構も四つの機関によってなされることが公表されています。その政府からの独立性の不十分さに疑問を持つ向きもあるかもしれませんが、問題の性格上、完全な独立性をもたせてしまったら(たとえば民間機関)、そもそもある情報を特定秘密として守ることができなくなります。

③特定秘密を国家(政府)が保持することが、どうして「戦争への道」なのでしょうか。国民の平和と安全を守ることが国家(政府)の最大の責務であるからこそ、それを脅かす外部、および内部の隠然たる勢力に対して秘密をキープする必要があるのではありませんか?

むしろこの法案は、日米協力関係、役割関係の強化という意味で、平和維持への現実的な選択なのです。現に米政府は、この法案に全面的に賛成しています。「日の丸・君が代=戦前の軍国主義」みたいな幼稚な連想ゲームはいい加減に卒業しましょう。

ところで「いつか来た道」と言いましたが、今回の反対派の反応を見ていると、たいへん既視感があります。そう、60年安保闘争ですね。今回はあの時ほどの盛り上がりは見せていないようですが、その構造はまったく同じです。国家・国民の将来のことを考えずに、何でもかんでもそのつど衝動的に反権力の情念を吐き出そうとする。その気運は、60年安保条約改定の時の強行採決によって一瞬、革命到来かと思わせるほど盛り上がりましたが、自然承認がなされるや否や、たちまち潮が引くように消えてしまいました。

いま日本国民のなかで、日米安保条約が、その後の日本の平和と繁栄に寄与したことをまっこうから否定できる人が誰かいますか?
 
私が許せないのは(といってもずっと後になってからわかったことなのですが)、あの当時、進歩主義知識人の代表として安保闘争の理論的リーダー格を務めた丸山眞男です。彼は、政治学を専門としているくせに、この安保条約改定の条項が具体的に何を意味するかについてきちんと検討した形跡が何もありません。丸山はろくに勉強もせずに、安保反対の旗を率先して振ったのですね。今回も専門風を吹かせながら、リベラリズム的良心をちらつかせて同じ態度をとっている人たちがいるようです(先の孫崎・柳沢両氏のように)。せめて知識人・言論人には、同じ轍を踏んでほしくないものです。そのために歴史の教訓があるのではありませんか。

もちろん半世紀前に比べて日本の言論界はいくらか成熟していて、この法案を支持する見解も相当見られるようです。また、単なる反対論というのではなく、次のような急所を突いた見解にも耳を傾けるべきでしょう。

・この法案では、官僚が情報を独占する恐れがあり、首相が政治判断する前に官僚によって取捨選択されてしまうのではないか。

 これは日本のような官僚主導国家ではかなりその可能性があり、そうならないような方策が必要となるでしょう。

・この法案には、罰則に最低刑の規定がないので有期刑でも執行猶予が可能である(執行猶予は3年以下の懲役または禁錮の場合)。だから事実上、ザル法と言わざるを得ない。

 これはなるほどと思わせる部分があります。本当に当事者に抑止効果を与えたいなら、最低刑の規定を設けるべきでしょうね。

 ただ、以上のような見解があるからといって、まったく立法の存在意義がないかといえば、そうとも言えないと思います。私はこの法案の意義は、むしろ、国際社会に向けてのアッピール効果にあると考えます。先に述べたように、同盟国はこの法律の存在によって、ある程度信頼を深めるでしょうし、敵対国が日本を舐めてスパイを簡単に送るようなこともいくらかは抑止できる。つまり、まあ、建前をきちんと固めておくおくことによって、ある種の外交上の利点を獲得できる。やくざ世界の仁義のようなものですね。

 法案は一両日中にほぼ成立の見込みなので、これからの行方をしっかり見守ることにしましょう。
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 『にゃおんのきょうふ』「一の巻」完全版  (イザ!ブログ 2013・12・6 掲載)

2013年12月28日 01時23分00秒 | 文化
『にゃおんのきょうふ』「一の巻」完全版

私は、二〇〇九年に『にゃおんのきょうふ』という拙著を上梓しました。実は編集者の判断で、「一の巻」の、いわゆるプログレッシヴ・ロックの趣味的なお話の部分が大幅に削除されました。一般人はそこに興味を持たないだろうという理由で、です。そのときは、それもやむをえないかと思ったのではありましたが、読書会で本書をテキストとして取り上げていただいたとき、「著者のプログレに対する思い入れがあまり伝わってこない」という感想を複数いただきました。そのとき、はじめてそのことを後悔したのでした。

その未生怨を成仏させるために、削除された部分を補った「完全版」を、以下に一般公開いたします。ご笑納いただければ幸いです。なお、you tube からの引用が出版当時になかったことをお断りしておきます。

*****

『にゃおんのきょうふ』―――体験的八〇年代思想論
一の巻 プログレ世代の憂鬱
             ――八〇年代前史



プログレとは
六十年代末から七十年代の半ばにかけて、「プログレ」というロックの一ジャンルが、わが世の春を謳歌した。私を含めた当時の若者たちの圧倒的な支持を得たのだ。とはいうものの、そのことを知っているのは、その時期に若者であった人々に限られると思われる。そこで、まず「プログレ」とは何なのか、かいつまんで説明しよう。

「プログレ」は、プログレッシヴ・ロックの略称で、プログレッシヴは、「進歩的な」という、森一郎の『試験に出る英単語』(浪人生のときにお世話になりました)のprogressiveのところで最初に出てくるくらいに、ありきたりな意味である。つまり、「プログレ」を直訳すれば、「進歩的なロック」ということになる。

「プログレ」 という言葉を目にして、即座に、イエス、ELP、キング・クリムゾンそしてピンク・フロイドというバンド名が条件反射的に出てくるならば、あなたはたぶん私と同年代だ。

また、ムーディ・ブルース、PFM、ジェネシス、マイク・オールドフィールドという名前が出てくるならば、あなたは当時かなりのプログレ・マニアだっただろう。

さらには、ソフト・マシーン、ジェスロ・タル、キャメルそしてU.K.の名が出てくるならば、あなたはおそらく当時プログレ・オタクの域にまで達していたはずだ。

また、それらのバンド名は出てこないけれど、グラム・ロックというロックのジャンル名なら分かっている。その言葉を目にしたならば、Tレックス、デビット・ボウィの名くらいは出てくる。そういえばストゥージーズだって知ってるぞ、と思い出してついノスタルジーに浸ってしまうあなた。そういうあなたなら、やはり間違いなく私と同年代だ。

ちなみに、私は今ちょうど(何がちょうどだ)四十代半ば。人生の悩みの大半が、いわゆる「経済問題」 に根ざしていることにいまさらながら気づきつつある、ちょっとズレた中年男である。

プログレ・ミュージックは、いわゆるロックにクラシックやジャズや民族音楽の要素を大胆に取り入れた。また、当時としては物珍しかったメロトロンやムーヴ・シンセサイザーといった電子楽器の斬新な音色を前面に押し出した。当時の言葉使いに習うなら、プログレは、それらを「フィーチャー」したのだ。リズム面では、変拍子の多用が特徴的だった。また、やたらと一曲の持ち時間が長かった。アルバムによっては、LP(CDではありませんよ)のA面B面で一曲なんてのもあったくらいだ。そこまでいかなくても、クラシックの交響曲風に組曲仕立てをしているアルバムが多かった。大曲志向が強かった、ということである。

さらには、ジャケットがやたらと凝っていて、幻想的な細密画のタッチが主流だったこともつけ加えるべきだろう。ロジャー・ディーン、マーカス・キーフそしてヒプノシスなどという、懐かしいジャケット・アーティストの名前が浮かんでくる。彼らの作ったアルバム・ジャケットが、プログレのコズミック(宇宙的)なロマンティシズムを大いに盛り上げてくれたという印象が残っている。

その手法やアウトプットされるサウンド(といわなければならないのだ、当時の語法としては)に衝撃を受けた当時の音楽評論家たちが、彼らの音楽を「プログレッシヴ」と形容したのだろう。後に、先にあげたビッグ4(イエス、ELP、キング・クリムゾンそしてピンク・フロイド)のいわゆる「マネッコバンド」が雲霞のごとく結成され、プログレが一定の様式をなぞり始めマンネリズムに陥ると、その形容はプログレに対する揶揄の格好の材料になったのだけれど。つまり、もはや「保守的」なのに「進歩的」という形容(動)詞をいまだに冠し続けている、という形容矛盾をからかわれたのである。

いずれにしても、右にのべたようなアプローチによって、プログレは、ロックをアートにし文学にした、と言ってもよいのではないかと思われる。


何故プログレなのか
『体験的八〇年代思想論』とサブタイトルをつけた本書を、「プログレばなし」 から始めるのには、それなりのワケがある。

六十年代末から七十年代の半ばといえば、私の場合、小学校高学年から高校卒業までにあたる。思えば、柔らかい感受性を外に向かって剥き出しにして生きていたころである。恐ろしく内向きであることと、外に対して無防備であることとが妙な具合に「共存」していたのである。多かれ少なかれ、思春期の子どもはそんなものではないかと思うのではあるが。

そんな感受性「全開」 の時期に、私(たち)は、プログレ全盛期を迎えている。そして、好きこのんでプログレ・サウンドのシャワーを全身にたっぷりと心ゆくまで浴びたのだった。

たとえば、私は、イエスのヴォーカリストのジョン・アンダーソンが、キング・クリムゾンのサードアルバム『リザード』 のB面でリリカルに美的思い入れたっぷりに歌っていることをまるで世紀の大発見でもしたかのように狂喜乱舞して友人にふれまわったりした。これは、中学三年生のときのことだった。


King Crimson - Lizard I (Lizard)


また、ELPのセカンドアルバム『タルカス』のA面を占める二十分の組曲「タルカス」のキーボード・パートを友人が口真似で、ドラムパートを私が指で机を叩いて、放課後えんえんとやりつづけたりした。私たち二人に対するクラスの女の子たちの冷ややかな視線の記憶がかすかに残っている(そりゃあ、そうだよな)。これは、高校一年生のときのことだった。

Tarkus - Emerson, Lake & Palmer [1971] (HD)


あるいは、「ピンク・フロイドの『炎』の原題は「Wish you were here」 で、要するに「あなたがここにいてほしい」という意味なのだが、ここでの「あなた」とは、バンド結成時のリーダーのシド・バレットのことで、かれは今、統合失調症患者として余生を過ごしている、という友人のプログレ薀蓄話をこの世の真理をかいまみるような思いを抱きながら神妙に聴き入っていた。これは、高校二年生のときのことだった。

Pink Floyd - Wish you were here - Remastered [1080p] - with lyrics


そして、これは毎度のことなのだが、ステレオのヴォリュームが大きすぎるということでよく親父に怒鳴られた。だったらヘッドホーンで聴けばよさそうなものなのに、それでは物足りなくて、音は小さくても全身で聴くほうがよかった。で、少しずつヴォリュームを上げて、どうかなぁという限度のところに差し掛かると、やはり親父に怒鳴られた。

多感な時期におけるそんな愚行の繰り返しが、感受性の質に決定的な影響を及ぼさないはずがないと思うのである。そして、それは私の個人的な経験にとどまらないという思いがある。さらに、その、「私の個人的な経験にとどまらない」ものが、実は、八十年代の底を流れるものの少なくとも一つを成したのではないかと思われるのである。むろん、それが大げさなもの言いであることは百も承知だ。

あっさりと認めるのだが、プログレ派は、同世代の中で少数派なのである。中学時代、圧倒的に人気があったのは矢沢永吉率いるキャロルである。また、そのころはアイドル歌手の全盛期で、森昌子、桜田淳子そして山口百恵のいわゆる「花の中三トリオ」が大人気だった。彼女たちは、私(たち)と同い年である。その中で山口百恵は徐々に進化し別格の存在になっていき、ついには「菩薩」と崇められるところにまで到達した(「菩薩」を嫁にした三浦友和は、どこかしら聖徳太子の風格を備えることになった)。

また、高校時代圧倒的に人気があったのは、井上陽水である。あるいは、吉田拓郎である。そして、これはその後判明したのだけれど、本音のところでは岩崎宏美のファンだった者が大勢いた。あの扇情的な声がしっかりと私(たち)の股間と心をつかまえていたのだ。洋楽(と、いまでもいうのだろうか)では、ポール・マッカートニーであり、オリビア・ニュートンジョンであり、サンタナだったのだ。

彼らに熱中したわが同世代の大半は、自分たちがプログレ世代として一くくりにされることに違和感を覚えることだろう。「プログレはまあ聞いたことはあるしそれなりに懐かしいけど、世代という言い方をするなら、われわれは陽水世代でしょう、実際のところ」という反応が返ってくるのではないか。


されど、われらがプログレ世代なのだ
私は自分の属する世代が「陽水世代」と呼ばれることに文句をいうつもりはまったくない。むしろ、的を射たネーミングだと思うし、そういう論を誰かに展開してほしいくらいだ。

要するに、私には同世代を「陽水世代」として論じる資格がないということだ。というのは、私には、当時井上陽水に熱中した経験がないからだ。そういう経験がないのにそういう風に同世代を論じるのは、当時陽水に熱中した人たちに対して申し訳がないような気がする。とりわけ、高校時代に私が所属していた美術部の部室で、ずば抜けて絵のうまかったA君が陽水の〝心もよう〝をアカペラで絶唱していたのを思い出すとそう思う。

むろん、かくいう私だって、友人から陽水の『断絶』や『氷の世界』などというLPを借りて一応聴きこんだりしてはいた。プログレを聴くときのような胸騒ぎまでは覚えなかったものの、少なからず印象に残った。陽水が心の底から「いい」と思えるようになったのは、四十歳を過ぎてからだ。四十を過ぎて、私の中で確かに何かが死んだ。そして、何かかが死ぬことで、モノの感じ方が少しだけ変わったような気がする。ここで、四十という年齢にひとつの墓碑銘を刻み込むことを、読者よ、許したまえ。

   四十代この先生きて何がある風に群れ咲くコスモスの花
                             道浦母都子

私には、音楽のジャンルに関しては、プログレに血道を上げた経験があるだけだ。そして、そこには、六十年代末から七十年代の前半という時代の、少数派としての同世代体験と呼ぶに値する実質がある、ということだけはいいうるように感じるのだ。だから、読者よ、とりわけ同年代の読者よ、私が「プログレ世代」を自称することを今しばらく黙認していただきたい。

私は、プログレそのものについてえんえんとオタッキーに論じ続けるつもりなどない。そういうことではなくて、プログレに血道を上げることによって全身で吸い込んだ、時代の空気の核心に迫りたいと願っているのだ。それがもしもうまく取り出せたならば、「プログレ世代」を自称した甲斐があったということになるだろう。そういうわけで、「プログレばなし」にうつつをぬかしたりせずに(というか、その欲望を禁圧して)、次のステージに移りたいと思う。


プログレ世代の憂鬱 
プログレをめぐる私の個人的なかかわりがどういうものだったのかについて、以下に要点をかいつまんで述べておきたい。これが、私なりに回顧して語れる「時代の空気の核心」の正体である。

・プログレ体験を共有したことのない異なる世代に、その体験のニュアンスをうまく伝えられないのではないかという思い。
・多くの人とは、どうにも分かち合えそうにない感覚。
・心の奥の切なる思いは、それが深いものであればあるほど、人から理解されにくい。
・「美」をめぐる求道者のようなイメージ。
・美の極限への内なる視線。
・徹頭徹尾「本気(マジ)」な、この世ならぬ美への志向性。

さらに言うならば、これは以下の本書の記述に大きくかかわってくるのであるが、次のように言い換えてみてもよいように思う。
・内なる思いの伝達不能性への怖れの感覚
・現実的ではない美へのあこがれ
・孤立感、あるいは追い詰められ、無理解に包囲された共同性
・内的な宇宙への関心

こういう言葉を踏まえたうえで、少数とはいえプログレに熱狂した者たちの心の核を成していた世代体験と呼ぶよりほかにないものをなるべく明晰な言葉に置きかえようとすると、次のようになる。

――何も起こらないし、起こったとしてもそこには本当は何の意味もない。そういう砂を噛むような味気ない現実を目の当たりにし続けた若者たちが、なおも消しがたい内なる美への衝動、あるいは「ほんとう」への志向性を自覚したとき、彼らは、おもむろにその真摯な視線を外界から引き上げ、自らの内面に向ける。そこには、現実なるものに対する静かなそして決定的な断念がある。それが、わが「プログレ世代の憂鬱」の核心なのではないだろうか。

彼らは、現実社会を変革する夢を見ないし、それに対して期待するものなど何もない。心のエネルギーは、なるべくそういうことから引き上げて、できることなら全て自分の内的世界に注ぎ込みたい。現実社会なるものに自分の内的世界をかき乱されるのは、なによりも苦痛で耐え難い。お前を否定する気はないのだから、お願いだから、必要以上に俺に関わろうとしないでくれ。そういう、言葉にすることさえない、現実忌避の感覚。それが、多感な時期に私(たち)が「全身で吸い込んだ時代の空気の核心」、言い換えれば、時代の「毒」 なのではないだろうか。それが、吉本隆明が言うところの「自己表出」として明確に外化されるのは、もう少し後のことであるにしても。

オウム真理教との関連について触れれば、「プログレ世代」は、その精神性に「オウム的なもの」のいっぱい詰まった卵を孕みながら独特の自我を共時的に形成したのである。ここで、「オウム的なもの」の核心をとりだせば、それは、「ほんとう」への志向性を自覚した者の真摯な視線が外的世界から引き上げられ、もっぱら内的世界へ向けられるということをめぐる不可避性の感覚のことである。同じことを別様にいえば、現実忌避の感覚が、政治的な形もとらず、倫理的な形もとらず、もっぱら文学的かまたは宗教的な形をとることである。また、先の「自己表出」とは、その感覚が外的世界との接点を持ったときサリンをばらまくという形をとったこと、あるいは、自分がばらまきはしなかったものの、オウムの行為にたいして微妙な共犯感覚を持ってしまったことを指している。

冒頭の「はじめに」のAくんとMくんという「二人の天才」にみられる、野心なるものの決定的な欠如は、彼らの精神の核において、現実社会とのつながりが見失われていることに基因する、と私は感じている。その「天才」を誇示する現実社会という対象があらかじめ見失われているのである。むろん、そのことと、彼らが、職場で高い評価を得て今もしかしたら出世しているかもしれないこととは、別に矛盾しない。彼らは、世間的に言えば、十二分に有能であるからだ。事は、ひそやかな内面に関わることである。

物事は、それが自分にとって大切だと思われる事柄であれば、はっきりさせないよりは、間違っていてもとりあえずはっきりさせたほうがよい。これは、私が四十数年間生きてきて得た、数少ない「教訓」のうちの一つである。だから、その「教訓」にしたがって、冒頭に掲げた問題提起になるべくはっきりと答えてみた。

以上展開した「仮説」を頭の片隅に置きながら、次の時代に目を移してみることにする。 (「一の巻」終わり)
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発送電分離・電力自由化は是か非か  (イザ!ブログ 2013・12・4 掲載)

2013年12月28日 01時16分14秒 | エネルギー問題
発送電分離・電力自由化は是か非か

いま私は、約21カ月間イザ!ブログに掲載してきた360ほどの投稿を、引越し先のGooブログにひとつひとつ移転しています。たまに削除してしまいたくなるような内容もありますが、そこはグッと我慢をして、記録性保持重視の方針のもと粛々と作業を進めています。

そんな中で、昨日移転した「電力の発送電分離は、電力安定供給体制を崩壊させる愚策である」blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/d7740cd2d1d306dae6e1619488e28b6d(2012・11・3 掲載)という投稿に対して、小山牧男という方が、反論のツイートを送ってきました。それをきかっけに、二人の間でけっこうな分量のやりとりがありました。お互い意見は正反対なのですが、ツイッターにありがちな、議論の途中での行儀の悪いちゃぶ台返し的な振る舞いもなく、また議論に勝たんがための変に皮肉めいた言葉の応酬もなく、最後まで気持ちよく話をすることができました(と少なくとも私は思っております)。

是非の判断は、ご覧の皆様に委ねるということで、小山さんとの間で合意が成立しました。それぞれの考え方の基本は、ほぼ出尽くしたと思われます。発送電分離・電力自由化議論に関する皆様の意見形成の一助にしていただければと思います。

*****

小山:日本の寡占管轄分担で「独占する民業の発送電一体で電力要求する脆弱さ」が、東電の電源被災で電力不足騒ぎとなった事実を踏まえない御仁の観念論ですね。配電という公共インフラで如何に電力エネルギーを流通及び安定供給させるかが命題です。

美津島:「配電という公共インフラで如何に電力エネルギーを流通及び安定供給させるかが命題です。」そのとおり。私は、そう言っているのです。発送電分離・電力自由化と電力の安定供給とは、まったくつながりません。ちょっと、考えればわかることです

小山:「配電という公共インフラで如何に電力エネルギーを流通及び安定供給させるかが命題」である場合、発送電一体での民営化も安定供給に対して事務面でも技術面でも足枷を生み出します。

集送配電を公共インフラとして整備して運用と管理の専従機構を置くのが国側の役目です。発電と売電は基本的に民間市場が形成されることが望ましく、集送配電側では買電に対して補助的な発電設備を持つ程度で安定供給を目指せばよいのです。

本来国と地方公共団体が担うべき優先インフラ整備は、情報通信提供、住居保証、飲料水供給、エネルギー供給、食料供給、公衆衛生、医療提供だ。次に、これに要する物流インフラとこれに資する費用が不足する者を支援する助成制度の整備がくる。

美津島:「発電と売電は基本的に民間市場が形成されることが望ましく」→その根拠は?欧米での目覚しい成功例とかありますか?あなた自身、観念論はダメだとおっしゃるのだから、歴史的な事実でお示しくださいね。

小山:欧米の後追い猿真似をこの期に及んでする必然性はありません。統制経済をお望みならそれに見合ったサイドがあります。自由主義経済をお望みなら、電力の生産と売買は法の下で自由市場の形成を目指すのが合理的です。

集送配電は、法の下で形成した自由市場の電力を安定供給するための電力流通インフラですから、公が整備して運用管理するべきもの。自家発電で稼働する事業者には余剰電力に対する税制を新設して売電を誘導するなども可能です。

例えば、基本的な電力量を地域ごとに地方公共団体が発電してそこに民間発電及び買電でが併存しても良い訳です。ですが、集送配電インフラは、基本的には国家規模で管理運用した方が、電力の需給に対応した機動性をもつインフラ形成が望めます。

美津島:あなたが展開しているのは発送電分離のグランドデザインであって、それが電力の安定供給を高める上で、どういう利点があるのかの説明は相変わらずありません。具体例があげられないのだったら、理論でも観念論でも構わないので説明してください。

小山:どこかにあるものを借りてくるとか、既存の制度から選択するという話をするつもりはありません。発送電一体であれば安定供給するわけでもなく、自前の発電施設に合わせた送配電設備を構築して運用した結果、有事対応が脆弱でした

一つの企業体で発電共有と送配電供給を一手に賄うのは、現況の電力需要規模からしても体力的に無理があります。送配電を公的インフラとして発電から切り離せば、発電市場に多くの事業体が参入できます。送配電自体も先進化でき得ます。

送配電側では、電源供給側の変動制に備えて一定の電源を自前で確保する必要はあります。しかし、供給側が発売電専業に限る事業体ばかりではないわけですから、買集電をフレキシブルに運用できれば一定の変動を吸収でき得ます。

30年以上前から発送電の制度と仕組みのままで来たから、容量のでかい発電設備に入れ替えても被災によって立ち行かない事態に陥るのです。将来に向けて発展性のある送配電インフラの構築とフレキシブルに電力を集配する仕組みが必要なのです。

これから作り上げていくべきだと考える発送電の仕組みの話ですから、グランドデザインで話をしてるってことはお分かりでしょうか。既存の電力事業の中で買電するという話ではありませんから、その手の失敗例や成功例に用はありません

美津島:東日本大震災で電力供給が不安定になったのは、福島原発事故をきかっけに、全国の原発がほぼ停止状態になったからですね。とするならば、安定供給のためには、ハードルを高くした安全基準をクリアした原発の再稼働を促進すればいいでしょう。

小山:国の原発がほぼ停止状態になる以前に、東京電力は電力供給が不安定になりました。保有発電所を前提に送配電設備が機能する様固定的に設置していたので、需要を踏まえた地域送配電をすることが難しかったことも不安定の原因となりました。

更に、他の電力会社から受電する設備が限定的であったために、余剰電力を十分に導入できなかった理もしました。休止した発電所の更新再配備や送配電の設備改修して行く中で全国の原発がほぼ止まったのです。

国で原発が総て停止した状況下では、電力会社が予想宣伝したような電力供給の不安定になる事態は起きていません。当初電力供給が不安定になった時点の様な節電が行われているわけでもありません。電力の自家供給自体も増えています。

既存電力会社による買電制度は、自身の営業利益を圧迫しない程度に設定されていますから、左程効果は上がっていません。茶番は茶番で終わるだけです。原子力の原価計算自体も茶番ですけどね。

加えて言うなら、日本は核分裂による原子力利用は終わらせることです。そしてその処理技術の方を先進できるよう努力すべきです。核融合の技術は今まで通り研究すればよいと思います。身になるものかどうかは今後の成果次第です。

そういう観点で見れば、日本は資源も資材も総て日本で自給できる発電方式を生み出して輸出できる処まで先進することを目指しても十分時間は足りるといえます。海洋からの資源開発で後れを取ってはなりません。

美津島:利潤を増やすために、自由化された発電会社は、売上増か、コスト減をするほかありません。それゆえ、欧米の発送電分離は、電力料金値上げと停電の頻発を招いています。それが現実です。地域独占の日本には、そういう事態は起こっていません。

いまの電力料金の値上がりは、太陽光発電分の余計な上乗せと原発を火力発電にシフトすることによってもたらされています。どうすれば電力料金を抑えられるかは明らかでしょう。また、世界最高水準の電力供給体制を壊す理由はない。

もともとエネルギーは総合安全保障の根幹を成します。民営化、自由化と根本的に馴染みません。その冒険をあえてした欧米は、ことごとく失敗に帰し、エネルギー政策の根本的な再検討を迫られています。それを後追いするのは愚の骨頂。
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アニメ『鉄の竜騎兵』(原作:松本零士)  (イザ!ブログ 2013・12・2 掲載)

2013年12月28日 00時58分56秒 | アニメ
アニメ『鉄の竜騎兵』(原作:松本零士)

宮崎駿の『風立ちぬ』を観て以来、私は、アニメを見る目が変わりました。以前から、馬鹿にする気はなかったのですが、アニメが、いよいよ実写フィルムのリアリティの領域を本格的に脅かし始めたことを実感したからです。そのことには、実写フィルムの制作に携わる側が、安易にCGやVFXに頼った映画を量産していることが関わっているのではないかという思いがあります。そのことと、Jポップが王道コードやカノンコードに頼り切った音楽を量産することによって音楽としての新鮮味を失いかけていることとは、どこかでパラレルな現象なのではないか、とも思います。その隙を、初音ミクというアニメ・コンセプトに突かれたりしているのではないか、と。

今回ご紹介する『鉄の竜騎兵』を観て、映像のリアリティをめぐってのそういう思いを新たにしました。二〇分ちょっとの短篇アニメですが、けっこう見ごたえがあるのです。とはいうものの、『風立ちぬ』の菜穂子のような魅力的な女性は一人も登場しません。レイテ島の戦場での、年長の古代一等兵と年少の宇都宮一等兵との、大げさには表出されない心の交流を通して、命を賭けた戦いの意味が鮮明に描かれています。原作は、松本零士氏が二五年以上描き続けている『The Cockpit』シリーズの同名作品(『週刊少年サンデー』一九七四年24号)です。脚本・監督は、高橋良輔氏とあります。

その次の動画は、『The Cockpit』シリーズから作られた三本のアニメについて、松本零士氏が、原作者としての思いを語ったインタビューです。彼は、そのなかで″機械構造物は、血と汗の結晶である。戦争という極限状況において、メカや機械構造物は、まったく無駄のない究極の姿にまで磨きをかけられる。極限状況における究極の産物なのだ。ファジーさや無駄は、平時の技術のものである。そのことは、戦争の是非とは関係がない。後世の我々は、みじめな負け戦のなかで先人によって磨き上げられた究極の技術の恩恵に浴している。そういうことを突き詰めておかないと、日本人は、今後辛い局面に追い込まれたとき、何のために自分たちはそういう苦労をしているのか訳がわからなくなって、みじめな思いをすることになる″という意味のことを言っています。松本氏は、さすがに『男おいどん』というペーソスに満ちたギャグ漫画を何年も書き続けた人だけのことはあります。人間の赤裸々な、飾り気のない本質に強い興味・関心を抱いている表現者なのですね。
*残念ながら、上記動画はその後削除されました(2013・12・28 記)。

そのことがとても残念なので、氏のお話の核心を、改めて述べておきます。松本氏が言っていることは、先の大東亜戦争の是非とはなんの関係もありません。共同体としての人間が極限状況に追い込まれた場合、おのずと共同体の記憶の中から最良のものを探り当て、その形姿が抜き差しならぬ技術として立ち上がる、と言っているのです。(2019.3.10 記)

ちなみに、上記の「三本のアニメ」のうちの一本が今回ご紹介するもので、他に、『音速電撃隊』と『成層圏気流』があります。そのなかで、私がもっとも心を動かされたものを今回ご紹介いたしました。


THE COCKPIT 鉄の竜騎兵 1/2

THE COCKPIT 鉄の竜騎兵 2/2

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