越部禅尼・俊成女(娘)は有名な歌人、歌の世界ではとっても恵まれた環境で育った。
だって7歳の時から(義理の)父が俊成、(義理の)兄が定家の、こんな家に育ったのだからね。
でも、家庭的には恵まれなかった。
父は「鹿ケ谷の変」に連座して官職を解かれ、母の八条院三条と離婚。
そして7歳の時、祖父の俊成に引き取られて養女となり、
それからやがて成長して結婚したのが、大納言・源通具。
この男、出世欲が人一倍強く、出世のために何度も結婚・離婚を繰り返す種類の人間。
新古今集の筆頭編者に選ばれてはいるものの、定家からしばしば撰者としての見識のなさを馬鹿にされる程度の人間。
というわけでこんな結婚生活も長続きするわけもなく、
子ども2人をつくりながらも、すぐに通ってこなくなり、自然に離婚ということになった。
さらにその上、翌年母も亡くなった。
もっとも落ち込んでいた時代だっただろうね。
その後30過ぎてから、後鳥羽院の宮中に出仕することになった。
ここから歌人として脚光を浴びる人生が始まる。
後鳥羽院は新古今集の編纂を命じた人で自らも新古今集に34種も歌を残す歌人でもある。.
後鳥羽院・俊成・定家そして陰では俊成女が中心となって新古今集が編まれたことは容易に想像できる。
そこで微妙な立場のもと夫・源通具、きっと適当に迷惑がられながらもやたら口だけは出す、そんな雰囲気がわかるような気がする。
それはまあそれとして、時は平家物語の時代。
やがて後鳥羽院は隠岐に流され、公家になった平氏も戦に敗れ、
貴族は凋落し武家の世界になっていく。
俊成女(娘)も二人の子にも先立たれて出家する。
最初は京都郊外の嵯峨で嵯峨禅尼として、やがて兵庫の播磨の西の端で越部禅尼として・・・
(続く)