越部は兵庫の播磨のはずれ、田舎だ。
てんかさんのあるところは周りは何もない。
人家はない、ただ葡萄畑があるばかり。
今ではちょっと歩くと集落はあるけど、当時はとっても侘しい所だったに違いない。
もちろんてんかさんはお墓なので、越部禅尼の住まいはもう少し集落に近い所にあったのだろう。
でも今でも侘しいところ。
(もっとも我が家がある集落はもっともっと侘しいけどね)
いったい、どうして、こんなところに来たのだろう?
当代最高の女流歌人と言われた人が・・・
実は越部は藤原俊成の荘園だった。
それを俊成は3つに分けて(上・中・下)3人の子供に残した。
その上に越部禅尼は住んだのだった。
荘園とはいえ戦国大名の国とは違って村程度の規模。
それを3つに分けたのだから、集落程度の規模だったろう。
生産性がとっても上がった江戸時代の庄屋さんとは違って、
貧しい暮らしだっただろうな。
もっとも隠遁生活をしてたのだから、つつましい暮らしはしていたのだろうけど・・・
でもなんで都を捨てて、こんな片田舎に来たのだろう?
それはね、当時とっても世の中は乱れていてきっと京には住めなくなったのだよ。
鴨長明の方丈記の世界。
源平の戦に明け暮れ、その上天変地異~大火、地震、飢饉・・・
何万という餓死者がでて、ほとんどの貴族も京を逃れ、田舎へ移ったのだろう。
嵯峨に住んでた俊成女もきっと命からがら、荘園があった越部に移ってきたのだろう。
(続く)