鴎外の記念行事にそれぞれの部局が動き出しました。
教育委員会は講演会が主ですが、観光課はタペストリーなどの前触れ以外は不明です。
一つのイベントに対して町長部局と教育長部局がどんな策を講じるか。
政治と教育の境界を知るきっかけになりそうです。
鴎外の記念行事にそれぞれの部局が動き出しました。
教育委員会は講演会が主ですが、観光課はタペストリーなどの前触れ以外は不明です。
一つのイベントに対して町長部局と教育長部局がどんな策を講じるか。
政治と教育の境界を知るきっかけになりそうです。
恥ずかしい話、私は鴎外の遺言状を書いた賀古鶴所について、ほとんど知りませんでした。
「森鴎外の遺言状」 余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ
一切秘密無ク交際シタル友ハ
賀古鶴所君ナリ コヽニ死ニ
臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス
死ハ一切ヲ打チ切ル重大事
件ナリ 奈何ナル官憲威力ト
雖 此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス
余ハ石見人 森 林太郎トシテ
死セント欲ス 宮内省陸軍皆
縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間
アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス
森 林太郎トシテ死セントス
墓ハ 森 林太郎墓ノ外一
字モホル可ラス 書ハ中村不折ニ
依託シ宮内省陸軍ノ榮典
ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ 手續ハ
ソレゾレアルベシ コレ唯一ノ友人ニ云k
ヒ殘スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許
サス 大正十一年七月六日
森 林太郎 言(拇印)
賀古 鶴所 書
賀古鶴所は陸軍依託生として同じ陸軍軍医になる森鴎外と東京大学医学部を卒業すると、直後に陸軍軍医に任官した。賀古は森林太郎と寄宿舎で同部屋であったことから林太郎は賀古を友として終生信頼した。なお、鴎外を陸軍軍医に勧めたのは賀古とも言われている。1922年の鴎外の死にあたって、遺言の口述筆記にたずさわる。
今回の「鴎外没後100年記念」に、賀古鶴所をクローズアップしたらどうでしょうか。
私が観光客に森鴎外について話をするときは作品のことではないのです。
「鴎外は少年の時津和野を離れてから一度も津和野に帰っていません。ところが、彼は死ぬ間際の遺言状では『余は石見の人森林太郎として死にたい』と語っています」と津和野への愛着について話します。
彼の遺言を書いたのは「賀古鶴所」で、静岡県浜松市の出身です。
浜松と言えば?・・・・そうです。