「津和野はやっぱりすごい」は「津和野はやっぱりすごかった」という過去形が正しいと思います。
津和野は歴史上の人物や過去のモノを資産としてきたのです。
ところで、今を生きる私たちはこの資産を絶やさないようにしなければなりませんが、周辺の色々な出来事からして、津和野は「新しい津和野の転換期」に入ったと思えてなりません。
今を頑張りましょう。
夕方、40代の御夫婦が店にやってきました。
いつものノリで接客していましたが、話がどんどん進むうち、これはただならぬ二人だと感じました。
御主人は慶応大学経済学部教授だと知り、鴎外に対して博学多才な奥様。
「山辺丈夫を育てた津和野の空気を味わいに来たとのこと」・・に唖然と感謝。
山辺丈夫は1851年(嘉永4)に津和野町森村(現在の津和野小学校の敷地内)に藩の大目付、清水格亮(かくすけ)の二男として生まれました。4歳のときに本町の山辺家の養子となり、養父正義のもとで武道や学問を学びました。
藩校養老館に入学後、その才能を発揮し、藩主から成績優秀者に与えられる賞をもらうとともに、15歳で槍術(そうじゅつ)初段の免状をもらうなど、いっそう文武に励みました。
19歳の時、藩の命で文学修業のため東京に出て、郷土の先輩であった福羽美静の倍達塾(ばいたつじゅく)や西周の育英社(いくえいしゃ)にかかわって洋学を学びました。22歳の時大阪に行き1年間小学校の教員を務めることになりました。翌年東京に戻り、ふたたび西周の塾に入り英語を学ぶとともに、旧亀井藩主の養子茲明(これあき)に英語を教えています。これが後に茲明に随(したが)って渡英するきっかけとなったといわれています。
26歳の時、亀井茲明の随行としてイギリスに渡りました。丈夫は保険業を学ぶため、ロンドン大学に入学し経済学を専攻しました。一方、当時日本では渋沢栄一らにより民間の紡績(ぼうせき)工場の設立が計画され、その実務担当者が求められていました。このことを聞いた丈夫は、自らその担当者になるべく申し出て、あらためて機械工学を学ぶためロンドン市内のキングス・カレッジに入学しました。その後、マンチェスターに移って紡績工場に勤め、技師として働くとともに日々製造品の組み立て方法などの研究を続けました。
1880年(明治13)、亀井茲明とともに日本に帰ると、渋沢栄一(しぶさわえいいち)らと日本最初の組織的紡績工場である大阪紡績会社を設立、その後取締役として綿糸(めんし)の製造に日々努めました。日清、日露戦争時には軍から被服の製造の命を受け、新工場を建設し、新たに機械を導入してその対応にあたりました。