何でもない日々

優しさの素は幸せ
幸せの素は楽しい
楽しく生きる人は優しい

春色梅暦(しゅんしょくうめごよみ)

2024-07-17 18:18:56 | 詩はあいまいな哲学
意味には大概その反対となる対立した意味を持っている。
派手とは葉出で自らを飾り出て外を味わい、
対立者に地味という根が地を味わう品柄を有させるが
渋さには派手とも地味とも判然たる対立者を持っていない。
ただ、積極的か消極的かの判断価値である。

渋味は恐らく渋柿から来ていて、柿は甘味も持っている。
なので、渋味の対立者として甘味を考えても差し支えないとする。
これらの対立意味はどういう価値としての内容を持っているか。

個的人間の中核を包み込んだ主要な情緒の「欲」と「寂」の
下部に緊張弛緩の感情「不安」があり、
その上部に幸福鎮静の感情「驚」がある。

驚きの周囲に「可笑」「美」「厳」の高等感情の構成要素が
空の雲のように浮かんで
下部の「不安」の周囲には多様な快不快の感情が展開しており、
動物進化上意義のある本能的情緒が根を延ばしている。

特に人間的重要性は「個体性寂」「主観的哀」と
「有限性哀」「客観的憐」が制約し合い
自己否定的なアガぺと自己肯定的なエロスの
二方向を弁証法的に内合していて、
有用な恋の裏には常に無敵な寂が基礎づけられている。

趣味は何らかの主体的価値判断を持っていて、
その判断が明瞭に主張される場合(有価値的)と、
主観内に留まり形を取らない曖昧な場合(非価値的)とがある。

「いき」は肯定から否定への中間に位し、
甘い夢が破られ批判的知見により内包的構造として
「いき」が目覚め、自律的遊戯の形へと推移を取り
「否定に依る肯定」として可能とする。

渋味は甘味の否定に相違ないが、その否定が優勢を示し、
甘味を常態(有価性)と考え、渋味に至る路があることに気付く。

否定はくすんだり、忘却と共に、渋味が甘未の艶を回想可能とする否定で、
つまり逆説は客観性としての輝きを持たせる。

非価値対立は上下の正方形の二対の対角線を垂直に切ることによって生ずる。
この関係は直六面体の立方体であらわすことが出来る。
上面は異性的特殊性(対自性)であり四つの頂点の意気の体面に野暮を置き、
渋味の体面に甘味を置く。
下面は人生的一般性(対他性)で上品の体面に下品を置き、
派手の体面に地味を置く。
二つの対角線の交点は普遍的具体者を意味し、
その内的発展によって、外囲に特殊の趣味が現れて来る。

ดัม-มะ-ชา-ติ dharmajāti ≠ ft. F.HERO 「BODYSLAM FEST วิชาตัวเบา LIVE IN ราชมังคลากีฬาสถาน」

小難しい本を読んで音楽鑑賞して現実逃避するのが好きで
老眼になってからは読書量が激減したものの
西洋哲学は用語に慣れれば理解出来るようになってきた。
それはきっと日本語の構造の複雑さと柔軟性と翻訳者の賢さのお陰でもある。
今『「いき」の構造 / 九鬼周造(サルトルのお弟子さん)』を読み進め、、
られない!ムズイ。
日本語そのままなのに数行を何分でも見つめては知らない語彙に苦戦する。
深遠な日本の哲学では上品でも下品でもあらずただ中間者と見做される
凡人なしての『いき』で飾るってのは実は難しいことみたいです。
2024-07-11 21:50:48に追記
2024-07-17 18:18:56に追記

コメント
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