京都編4/赤門の竹林寺(下立売通)の続きです。
下立売通を挟んで「赤門の竹林寺」の向かいにあるのが
「だるま寺」として知られる、法輪寺です。
法輪寺(達磨寺)
京都市上京区下立売通御前西入
【電話番号】075-841-7878
1727年(享保12)万海が創建。臨済宗妙心寺派。
達磨(だるま)堂に三国随一という起き上がりだるまを中心に
全国から集まった千変万化のだるまが並ぶ。キネマ殿には日本の映画関係者800人を祀る。
衆聖堂2階には英霊殿があり、太平洋戦争の戦没者、特に南太平洋方面で戦没した英霊を祀る
(本堂に続く石畳)
受付で拝観料300円を納め、
境内で拝観方法の説明を受けました。
本堂、達磨堂、衆聖堂へは自由に入って良いとのことでした。
全国から集まっただるまが並ぶ、達磨堂。
上)衆聖堂1階
下)戦没者の位牌が並ぶ衆聖堂の2階
本堂の庭、
小さいながら、よく手入れされています。
一応、拝観料を納めたものだから、見学コースを見て回りましたが、
私の目的はほかにありました。
このお寺を建てたのは、
京都室町で両替商を営んでいた荒木光品宗禎という商人、
お寺の数が多い京都にあっても
商人が建立したお寺というのは非常に珍しいことだそうです。
荒木光品、実は津市安濃町と関係の深い人物です。
阿由多神社・安濃城跡(安濃町安濃)
安濃町の阿由多神社所蔵の「大般若経600巻」は、津市指定有形文化財、
細野氏の子孫で、京都の豪商・荒木光品が、江戸時代の享保20年(1735)に故郷の神社に奉納したもの、
と神社に由来が伝わっています。
荒木光品宗禎は、京都室町で両替商「伊勢屋」を営み、
いわゆる「豪商」だったようです。
しかし、この京都の荒木氏が本当に津市の安濃出身なのか、
また細野藤敦の子孫であったのか、
そのことを調べに三重県からやってきたのです。
「こちらのお寺を創建された、荒木光品のことを教えていただきたいのですが」
と、受付の女性に尋ねてみました。
「荒木さんのことは、もちろん知っていますとも、
荒木家は代々、この法輪寺の檀家総代ですから、
そろそろお墓参りにも来られる頃ですし」
「えっ?荒木家のお墓があるのですか?」
ということで案内されたのが、達磨堂に隣接する墓地です。
そう広くはありません、バレーボールのコート1面分くらいです。
しかし、受付の女性が指差したのは
「ここから奥のお墓全部が荒木家のお墓ですよ」
とのこと。
墓地の4分の1が、室町の両替商だった頃からの
荒木一族のお墓だったのです。
俗名が彫られている墓石もありました。
左が「荒木光包」、右が「荒木右京」、
荒木光品宗禎の子孫と思われます。
また「勢州」と彫られた墓石もありました。
これは荒木一族が伊勢国出身であることを証明するものです。
2列の墓石群の最奥部にあったのが
こちらの宝篋印塔です。
これがおそらく荒木光品宗禎のお墓なのでしょう。
石の扉には家紋が刻まれていましたが、
それは長野工藤氏の家紋(丸に二引両)ではありませんでした。
もし、家紋まで一致するなら、
荒木氏は細野藤敦の子孫であったと確信したところでしたが、
そう簡単ではなかったようです。
現時点での私の推理として、
1.法輪寺を建立した荒木光品と、安濃へ大般若経を奉納したのは同一人物である。
2.少なくとも江戸時代の300年間、荒木一族は京都にいた。
(現在は大阪府富田林市在住であるとのこと)
3.荒木氏は細野藤敦の子孫ではなく、忠実な家臣だったのではないか。
藤敦が安濃城にいた頃に家臣となり、出身地の荒木村に因んで荒木姓としたのではないか。
4.関ヶ原の戦の後、藤敦が領地没収の処分を受けたので、
家臣達には、他家に仕えるなり、故郷に戻るなり勧めたところ、
荒木氏の祖先は、京都で商人となるべき道を選んだのではないか。
ということが言えると思います。
京都編6/妙心寺(前編)へ続く。