3月24日に丸森町の不動尊公園キャンプ場にチェックイン、翌25日の夜中2時半頃に目が覚めて帰りのルートなどを検討していたらスマホのバイブで着信に気づいた。
電話に出ると親父の入院先からで「夜中に容態が急変して危篤状態、直ぐに来てほしい」との事、時刻は0346だった。
間抜けな事に「えっ!(未だ亡くなるには)早過ぎる!!」というのが第一声、続いては「仙台の近くに泊まっているので直ぐは無理、お袋かカミさんを行かせるようにします。」と答えて電話を切った。
病院も実家や私の家にも何度も電話をした様でカミさんも目覚めていて何度かメールでやり取りしお袋や妹の所にも連絡を取って貰い、朝一の電車で病院へ向かってもらう事にした。
一通りの連絡を終えたら先ずは寝袋を始めテント内の荷物整理を開始、夜が明けたらテントも撤収して直ぐにパニアに詰めて出発出来るように準備。
0530には周囲が明るくなっていたのでテントを畳み、なるべく静かにパッキングしてバイクに積み込み0630にキャンプ場を出発、キャンプ場から最短ルートで新地IC行き、常磐道を一気走り。
結局親父はお袋と千葉から駆け付けたカミさんに看取られて3月25日0709に亡くなった。 行年91歳(実齢89歳3ヶ月10日)だった。
その時刻、間抜けで能天気で親不孝の馬鹿息子は親父を看取る事も出来ず、DLに跨り放射能表示の看板を横目に相馬の辺りを南下していた。
馬鹿息子は途中一回のトイレ休憩と給油をして1000丁度に帰宅、その間に妹も合流して女3人でチャッチャと葬儀の手配を完了、役立たずは、以前から決めていた親父の写真をUSBにDLしたのを持って実家へ電車で向かったのだった・・・
恙なく葬儀も終わり数日振りに家に帰ってきた。
親父に関するバイク絡みの想い出はいくつかあるが、真っ先に思い出すのは私が16でバイク免許を取りに行った時も何も言わず、アルバイトをして稼いだ3万円を見せると残りを黙って出してくれて購入した新車のヤマハのFS-1が自分にとって最初のバイクとなった。早いものであれから絶えることなくバイクに乗リ続けて半世紀になる。
先輩より少し若輩者のDL乗りです。
私も数年前に親父を亡くしました。余命が僅かなことは分かっていたのに前日の土・日曜日は家でゴロゴロ、翌日曜日の深夜に肉親の誰にも看取られずに亡くなりました。その少し前にちょっとだけ二人きりで話したのが最後。男同士なぞそんなものかも知れません。
お気を落とされず。
これからも、楽しいブログを待ってます。
先日は平時の頃などとコメントさせてもらいましたが、大変失礼致しました。
御父様のご冥福をお祈りしております。
こんばんは、暖かいコメント有難うございます。
少し前に転院する時に手の爪を切ってくれと
普段は何も頼んだ事の無い親父が言うので、
手と足の爪を切ってやりました。
薄くて簡単に折れそうな爪でした。
さっぱりして満足そうでしたのが想い出に
残っています。
暫くは後始末でバタバタですが、雀百まで踊り
忘れず、まだまだバイクで走りたいと思っています。
こんばんは、折に触れて親父の事も書いていましたし、ver 650さんもそれをご配慮いただいた上の
「平時の頃」と書かれたものだと理解していましたのでお気になさらずに。
父はもう何年も入退院を繰り返していましたし
、もうそろそろ楽になっても良いかなっていう
気もしていました。
母の看病疲れもそろそろ限界が近いという感も
あり、潮時だったかと思います。
私も本年2月に入院から1カ月で母が他界し、今朝昨年から闘病しておりました同居の義母が他界致しました。
肉親、家族が居なくなると、それこそ何かポッカリと心に穴が空いたしまった様な気持ちになりますよね・・
家族を大切にしながら、健康に気を付けてバイクライフをエンジョイしたいものです。
また、ご一緒になる事を期待しています。
謹んで、お悔み申し上げます。
おっしゃる通りだと思います、お二人続いてでは
後の事も大変だと思いますが、無理せずに処理を
こなして行きましょう。
落ち着いたらまた出掛けたいと思っていますので
またいつかどこかでお会いしたいですね。