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高学歴女子にシワ寄せされる社会の過剰期待 「貢献せよ」しかし「みっともないのはNGだ」

2016年11月02日 | 社会・経済

こんなコラムを読んでしまった。
フムフム、なるほど!ん~、そうかな?
などと考えながら読んでしまった。
「社会の過剰期待」なのか「企業の過剰期待なのか」?
「貢献せよ」?  どこに?
今は「貢献」してないの?
求めるならば、それなりのもの、環境を与えなければならないだろう。
若い女性に求めるべきもの、というより社会、企業に求めるべきではないのか。
就活、残業、パワハラ、婚活、結婚、出産、育児、教育、介護・・・・・
あまりにも不備すぎる!


 河崎 環:フリーライター/コラムニスト - 東洋経済オンライン - 2016年11月2日

 

最近、若い女性の「化粧」をめぐって周辺が騒がしい。

9月中旬から展開された、東急電鉄の広告シリーズ『わたしの東急線通学日記』がネットで物議を醸した。車内マナーの啓発を狙ったものだが、「歩きスマホ」や「列の割り込み」「車内でリュックを下ろさない」と並ぶマナー違反の事例の中、女性が電車の中で化粧をする姿を「みっともない」と主観的に評したことに女性からの批判が噴き上がったのだ。

「他者に迷惑をかける明確な理由がある他の事例なら社会生活のマナーとして納得がいくが、なぜ女の化粧が”みっともない”という言葉で批判されるのか」「社会が女に期待する価値観の押し付けでしかないのではないか」――。

中でも「お出かけ前になぜできない」という広告中のコピーには「男性同様に長時間労働をこなし、化粧の時間がない女性もいる」との声があり、特に若い世代の女性の就業率上昇と労働内容の変化といった、時代の反映を感じさせられる。

資生堂インテグレートのCMが炎上し、放送休止・ネット動画削除へと至ったのも記憶に新しい。「25歳からは女の子じゃない」「イイ女めざそう」「頑張っている様子が顔に出ているうちはプロじゃない」とのメッセージやコピーには、ターゲットのはずの若い女性たちから「昭和の価値観」「いまだに女を年齢で脅すなんて古い」「もう買わない」「キモい」と激しい言葉で反発が起こった。

「女は働け産め育てろ介護せよ」の”無理ゲー”

一億総活躍の旗印の下、「女性も輝け」との大号令がかかる現代。女性も労働力として貢献せよ、アシスタントの立場に甘んじず専門性の高い”立派な”社会人たれ、そして既に結婚も出産も可能性の絶たれたアラフォーおばさんたちを反面教師として、いずれ適齢期を逃さぬうちにしっかり産み育て出生率上昇にも寄与せよ。「あれもこれも社会に貢献せよ」しかも「みっともないのはNG」、それがいまの若い女性に要求される生き方の”ボトムライン”だ。

「女性活用」は、疑う余地のない正義として響く。それは冷静になって考えてみれば「女は働け産め育てろ介護せよ」の”無理ゲー”な内実を集約した呪文であっても、だ。いま社会人として成長過程にある若い高学歴女子たちは、前人未踏の「女性活用」の戦場へと歩を進めていかざるを得ない自分たちが、360度全方向から放たれる、無責任で容赦なく「求めすぎ」な社会的要請の標的となっていることに薄々気づき、反発し、防衛を始めている。

世間の価値観では疑いなく”勝ち組”であろうピカピカの経歴を持つ、ある女子大生は言う。

「結局、女性の負担が増えただけ。どんな時代であっても変わらないのは、産むのは女性だということ。それに、自分たちが親に与えてもらってきたような高めの家庭・教育環境を自分も子供に与えたいと思っても、共働きでどこまで近づけるのかもわからない。同じような環境は、もう日本では手が届かないのかもと思えてしまいます。無理難題であるとわかっているのに、時間が来ると就活で後ろから押し出される。不安です」

男だって、まして女はなおさら、丸腰で世の中になど出られない。

ツイートに滲んだ「ハイスペック女子の葛藤」

1日の睡眠時間、2時間。追い詰められていた彼女は電車の中で化粧をしただろうか。長時間労働が事実上の企業文化であり、勝ち組の頂点に君臨し続ける根拠の一つでさえあると知られた最大手広告代理店、電通の新入社員だった東大卒の高学歴女子は、去年のクリスマスに「限界だ」と言い残して身を投げた。

”神様、会社行きたくないです”

”部長「髪ボサボサ、目が充血したまま出勤するな」「今の残業量で辛いのはキャパがなさすぎる」わたし「充血もダメなの?」”

”土日も出勤しなければならないことがまた決定し、本気で死んでしまいたい”

”死にたいと思いながらこんなストレスフルな毎日を乗り越えた先に何が残るんだろうか”

”男性上司から女子力がないだのなんだの言われるの、笑いを取るためのいじりだとしても我慢の限界である”

 

死の5日前までつづられたツイートには、学歴や容姿、若さなど、今この時代に求められる女性としてフル装備のはずの彼女が職場で追い詰められていく様子が滲む。彼女は、24歳だった。あなたは24という年齢を「もう24」と思うだろうか、それとも「まだ24」と思うだろうか。

人前に出るのなら相手に不快感を与えぬよう、身だしなみとしてちゃんと薄化粧するのも社会人女性としてのマナーだと教えられた。そのくせ、化粧するなら場所をわきまえろ、ちゃんと年齢や塩梅もわきまえて大人のいい女を目指せと、世間は若い女性に化粧する場所や仕方まで講釈を垂れてくる。それは親切なのか、いやお節介なんじゃないか。

化粧したらしたで、厚いの、派手だの。場所をわきまえろだの、どうこう言われ、しなかったらしなかったで「女子力低いよ」「モテないよ」「女の子でしょ?」と皮肉られる。人の仕事を酷評した上司が、その舌の根も乾かぬうちに、「もっと身だしなみに気をつけろよ。女子力低い、仕事だけの女の人になっていいの?」と、仕事もできない(そう言ったのはその上司だ)若手女性に「仕事のできない女」「仕事だけの女」と、2本ともデッドエンドの道を示して意地悪く笑う。

なんだ、どっちに進んだって袋小路ではないか。仕事も私生活も充実したイイ女という”解”以外、存在は許されていないじゃないか。そう言うあなたたちがどれだけのものなのか。若い女を追い詰めて何がしたいんだろう。

それは、世間ぐるみのパワハラではないのだろうか。

現実を無視した負荷は、不妊問題の一因でもある

おおかたの男性なら朝のグルーミングは洗顔と歯磨きと整髪(ここまでは男女共通)にヒゲ剃りで済む。でも、女性はヒゲ剃りの代わりに、”みっともなくないように”、洗顔後の何重ものスキンケアと下地づくりに始まる、ちょっとした建設作業を行わなきゃいけない。

営業の飲み会に付き合い、しこたま飲んだけれどとりあえず1回吐いて持ち直し、上司に突き返されていた企画書を徹夜で全編書き直した翌朝、肌も髪もガサガサ、どうにかシャワーと着替えだけは済ませ這うようにして出社、というわけにはいかない。

男女雇用均等法時代の電通ウーマンに、あまりにも男性と伍しての長時間労働が常態化したために「美容院に行く時間どころか発想さえ失って、ずっと社内で帽子を被り続けて仕事をした」という人がいた。その彼女も生理が止まり、体力の限界を感じて退社した。それは社内ではシンプルに”落伍”や”戦線離脱”と捉えられ、すぐ忘れ去られるようなエピソードの一つに過ぎないのかもしれない。女性には、マッチョな男性社会ですでに出来上がった”そういう働き方”に付き合う体力はない。

そんな風に生理が止まるまで「女性も輝いた」結果、いざ子供を持とうと思ってもできない、そんな結末に泣いた女性たちがアラフォー世代より上にはたくさん存在することを付記しておきたい。

男女雇用機会均等法施行から30年経ち、いまのデキる女子は「労働と出産の両面で社会に貢献(奉仕)せよ」かつ「わきまえろ」という、社会の二重のメッセージを受け取っている。果たして、日本の女を取り巻く社会は、何がどう進化したのだろう。

日本の社会は、若い女の一挙手一投足には、どんな口を出してもいいと思っている部分がないだろうか。明らかに自分より弱い立場にある、御しやすい若い女たちを無遠慮に眺め回しながら、その容姿をあれこれ批評して、その生き方に「結婚しなきゃダメだよ」「子供は持たないと、女の人は何か欠けてるよね」と注文をつける。そうかといって「カワイイだけじゃダメだよ」「いつか需要なんかなくなるんだからさ」と見も知らぬ赤の他人がダメ出しして、追い詰め、焚き付けてほくそ笑んだり悦に入ったりしていいと思ってはいないだろうか。

就職氷河期以降のキャリア女性に共通する、とある傾向がある。それは聞く側が違和感を覚えるほど自分自身を突き放し批評する、冷静な客観性だ。30代前半のキャリア女性は、氷河期と呼ばれた就活時代を振り返って「就活を成功させるために、危機感を覚えた学生はみなセミナーに通った。そこでは否応にも自分を多角的に見つめなければならなかった。その時のクセが、まるでトラウマのように残っている」と語った。就活での準備体験は、婚活でも繰り返される。対策を間違えれば、誰にも欲しいと言ってもらえない人生が待っている。だから今の女子はみんな必死だ。

彼女たちは「葛藤」という爆弾を抱えて戦場へ赴く

ストレートに大学を卒業する22歳以降で、結婚・出産・育児など、自分の中にある女としての生物的な機能が規定する「避けられないライフイベントがいつか確実に起こす葛藤」にしっかり目を向けながら、戦場へと出ていく彼女たち。いや、働くことを”戦場”なんて表現しなきゃいけない働き方が当たり前になっている社会は、そもそも異常ではないか。

長い間、日本の女性による労働は家庭の玄関ドアの中から出てこず、可視化されていなかった。それは水面下に潜ってきたために、いざ女性の労働力を集めてみたらいかなるものなのか、果たしてそうすることで社会はどう根っこから変わるのか、誰も知らない、見たことがないというのが本当のところだ。

だからなのか、ひとたび女性の労働力を活用すると決まったら、まるでそれは無尽蔵で、全ての社会問題を魔法の杖一振りで解決する呪文かのように扱われている。

もともと幼い頃から大人の期待に応えることで「いい子」「デキる子」と育ってきた高学歴女子は、自分へ向けられた期待に敏感だ。「未来は君たちにかかっている」などという言葉は、仮に人生を諦めたおじさんやおばさんの口から発せられる、意味など持たない挨拶以下の音声に過ぎないのだとしても、優秀で素直な彼女たちは、口先では反発しながら、そんな過度の期待をしっかりと背負ってしまうのだ。

若い女など御しやすいと思って、一挙一動に口を出す「非当事者」たちは、その一言が真面目でよくできる、高いポテンシャルを持つ彼女たちの命を削っていることに気づいて欲しい。女性に求める価値観へ疑問を挟むことのないまま過剰な期待を上乗せした「女性活躍」というキーワードが、女たちを追い詰めていくことに、気づいて欲しい。男たちに一人一人顔と名前と人生があるように、「あの、過労自殺しちゃった電通の女の子」とうわさされることもあるであろう若い女性にも、顔と名前と人生があることを。