2015年10月3日、国境なき医師団(MSF)がアフガニスタンで運営する病院が米軍による空爆を受け、患者・スタッフ42人が命を落とすという悲惨な出来事が起きました。医療施設への攻撃はその後も世界各地で繰り返されています。
なぜ、命を救う場所に爆弾が降りそそぐのか。なぜ、患者や医療者や彼らを支える人びとの命を狙うのか。たくさんの「なぜ」が、私たちの中にうずまいています。
MSFはこの「病院を撃つな!」キャンペーンを通して、この思いをより広く発信し、行動に移していきたいと考えています。主旨にご賛同くださった皆さまには、事態の改善に向けた私たちの取り組みに、ご支援・ご協力をいただければ幸いです。
日本の皆さまへ:MSFインターナショナル会長 ジョアンヌ・リュー
2016年5月3日の国連安全保障理事会では、紛争下での病院、医療・人道援助活動従事者、傷病者への攻撃を強く非難し、そうした事態に対しては迅速で公正な調査を求める決議が全会一致で採択されました。この決議作成には、日本も提案5ヵ国のひとつとして加わっています。この国連安保理決議が机上の空論に終わり、医療施設への攻撃が常態化することがあってはなりません。私たちの「病院を撃つな!」キャンペーンに、皆さまからのご支援・ご協力をお願いいたします。
「病院を撃つな!」キャンペーンの署名活動にご協力ください
患者・医療従事者、および医療施設への攻撃が二度と起きないことをMSFは望んでいます。
日本政府あての下記の陳情に皆さまのご署名をいただくことが、こうした現状の"常態化"をくい止める一助となります。MSFは沈黙しません。事態を食い止めるためにあらゆる手を尽くします。紛争地でも医療スタッフは不安なく活動でき、患者は常に安全でなくてはならないのです。
ここに署名をした私たちは、医療施設、医療・人道援助活動者と患者への攻撃に憤っています。国際人道法のもとの「医療保護」と、攻撃の行為者の責任を求める、MSFの日本国内外への呼びかけを支持します。そして、私たちはMSFとともに、2016年5月採択の国連安全保障理事会決議第2286号が単なる文書にとどまらず、医療施設、医療・人道援助活動者および患者の中立・安全・保護を維持し、攻撃の責任者に説明責任を果たさせる具体的な行動へと結びつくよう、あらゆる影響力の行使を日本政府にお願いいたします。
国境なき医師団"紛争地のいま"展を全国へ広めよう
東京会場(2016年10月1日~5日)には、2508人の方がご来場くださり、たくさんの力強いメッセージをいただきました。スタッフトークは満席となり、熱心に質問をしてくださった姿も印象的でした。
現在、全国各地から「写真展を開催してほしい」とのご要望をいただいております。私たちも同じ思いで、実現をめざしてクラウドファンディングにも挑戦しています。応援をよろしくお願い致します!
"紛争地のいま"展を全国に広めよう。
写真展を広めていくため資金を募るクラウドファンディング実施中。
どうぞご協力を。
返礼品は様々なオリジナルグッズ
(写真は一例です)
無念の思いを越えて――日本人スタッフの証言
焼け残った壁に書かれた「なぜ」の問い(井田 覚)
クンドゥーズ外傷センターの爆撃が起きた後、私はプロジェクト・コーディネーターとして現地入りし、センター再開に向け、アフガニスタン中央政府をはじめ関係各所と交渉を行いました。しかし交渉は難航し、事件から11ヵ月が過ぎた今も、再開のめどは立っていません。
2011年に開設されたこの病院は、人口100万人以上のクンドゥーズ州で唯一、高度な外科治療を無償で行っていました。爆撃の5日前、政府軍とタリバンの激しい戦闘でクンドゥーズは前線に囲まれました。センターには患者が殺到し、廊下にも負傷者があふれる中、MSFは24時間体制で救命治療に当たりました。そして2015年10月3日の未明、突然、夜空から死が降ってきたのです。
紛争地でMSFは、中立性を持って、医療倫理に基づき誰にでも平等に必要な医療を提供しています。戦場だからこそ、医療行為が安全に行われるよう、あらゆる勢力から医療施設・医療者の安全を保障される必要があります。クンドゥーズの人びとは、センターの再開を強く望んでいます。現地では自発的な署名活動も始まっていますが、再開にはこうした安全保障が必須です。一方で、アフガニスタン政府内でどのような議論が行われているのか説明はなく、交渉の見通しさえ立っていないのです。
そもそもなぜ病院が爆撃されなければならないのか?崩れ落ちた外傷センターには、焼け残った壁にスタッフが大きく書いた「Why?(なぜ?)」の文字が残っています。米国は、米軍による攻撃を認めましたが、調査内容は非公開であり、第3者調査も受け入れていません。犠牲者とその遺族、大きな障害を負うことになった負傷者は、わずかな見舞金を提示されただけです。彼らは将来の見通しも立たないまま、賠償金を法的に求める手段さえありません。医療施設への攻撃は残念ながら、アフガニスタンのほか、シリアやイエメンなど、世界中で起こっています。これが「標準」になってはいけないのです。
クンドゥーズ外傷センター爆撃後、迎えた朝の記憶(西山 聡子)
私はアフガニスタンの首都カブールで、国内のプロジェクトで働くすべての海外派遣スタッフの出入国、移動などを管理する役割を担っていました。クンドゥーズでは9月末頃から患者数が急増したため、スタッフは病院に泊まりこみ、次々と運ばれてくる患者に対応していました。チームは完全に疲弊してしまい、急きょスタッフを入れ替えて緊急対応する手配を進めていたところでした。
10月3日の朝、カブールの宿舎で目覚めると、普段と何かが違っていました。いつもの静けさのなかに漂う、緊迫した空気。居間の扉を開けると、そこにはMSFの危機対応チームのメンバー全員が集まっており、全プロジェクトを統括する活動責任者が差し迫った声で電話に向かっていました。
3日の午後、クンドゥーズにいた海外派遣スタッフがカブールへ戻ってきました。クンドゥーズで働いていた現地スタッフも一部、親戚などを頼ってカブールへやってきていました。彼らを迎え、オフィスの広間で労いの会が開かれたとき、クンドゥーズで働いていた現地スタッフの1人が言いました。「たとえ自分たちを爆撃した相手が負傷して病院に運ばれてきたとしても…治療を提供する。僕は医療スタッフだから」心からそう思ったのか、彼の本当の気持ちはわかりません。でも、現地スタッフのこの言葉に胸を突かれる思いがしました。
チームをまとめていたプロジェクト・コーディネーターは経験豊富な強いタイプの人でしたが、カブールに戻ってきた彼女の顔は見分けがつかないくらいに変わっていました。自分の目の前でチームに起きた事件に、大きすぎるショックを受けたようすでした。声をかけることもためらわれ、私は自分がやるべき仕事に集中しようと努めました。クンドゥーズの事件は大きな悲劇です。でも、この事件によってアフガニスタンで動いているほかのプロジェクトが滞るようなことがあってはいけません。チームはみんなその思いで業務を続けていました。
なぜ彼が命を落とさなければいけなかったのか(吉野 美幸)
私は2013年、まだ空爆を受ける前のクンドゥーズ外傷センターで、現地外科医のスーパーバイザーとして約3ヵ月間活動しました。当時もかなり忙しい病院で、毎日約15~20件の手術が予定され、緊急手術もどんどん入ってくる状態でした。患者は戦闘の負傷者だけでなく、市場での買い物中に爆撃を受けた女性や、公園で遊んでいて流れ弾にあたった子どももたくさん運ばれてきました。ただ遊んでいただけなのに傷ついて命からがら病院に運ばれてくる子どもたちをみて、手術をしながら何度も胸が痛みました。
外科の専門医療を受けられる病院がほかにないクンドゥーズでは、この病院は女性や子どもたちを含む多くの人に必要とされていて、「最後の砦」のような場所だったのです。みんなが安心して医療を受けられるはずだった病院が、あの日、爆撃を受けました。
亡くなった14人のスタッフの中には、当時私が一緒に働いていた同僚もいます。そのうちの1人、集中治療室の医師をしていたモハマッド・エーサン・オスマニ医師は特に親しくしていました。彼は技術や知識の面でも優秀な人でしたが、人間としても魅力的で、いつも患者や家族への気遣いを忘れない優しいドクターでした。英語も堪能だったため他の国でも働ける能力を持っていましたが、彼は、「母国であるアフガニスタンで、地域の人たちを助けたい。だから僕はここに残って働いていく」と言っていました。
彼が亡くなったということは、スタッフの1人が失われたたというだけでなく、彼がこれから救うはずだった多くの命も失うことになった、ということです。それは地域にとって本当に大きな損失です。また私自身にとっても、大切な友人の1人を失うという大きな悲しみを意味しています。なぜ彼が命を落とさなければいけなかったのか、原因をはっきりと究明してほしいという気持ちでいっぱいです。1日も早く病院が再開され、地域の人がまた医療を受けられるようになることを願っています。
戦時下のイエメンで、ひたむきに生きる人びと(畑井 智行)
紛争が長引くイエメンの新規プログラム立ち上げで、薬局管理と医療スタッフ指導を担当しました。2015年に空爆を受けたMSFの支援病院を含む、この地域の包括医療支援です。美しい建築物の多くが空爆で破壊され、ゴミだらけで異臭を放っている町で子どもが育ち、人びとが生活している姿には、胸が痛みました。
訪問した支援先の診療所では、活動中に目の前で空爆が起きたこともありました。爆音と大きな衝撃で、道路がへこみ、診療所の窓ガラスも割れました。拠点の町でも最初のうちは比較的安全でしたが、そのうち毎朝空爆が起こるようになり、500m~2km先で頻繁に爆撃がありました。ハイダンでは小学校も空爆の対象となり、10人が亡くなり、28人が負傷しました。
現地のスタッフは、みんな誰かしら家族や親戚を亡くしています。その状況に慣れてしまっていて、「もう7回目の戦争だから」と、言うのです。度重なる引越しを余儀なくされ、大変な状況の中でも、毎日医療援助の現場で働いています。イエメンの人は、おもてなしの精神が本当に厚く、MSFで働く現地スタッフも経済的に余裕があるわけではないのに、みんなプレゼントをくれたりケーキを作ってくれたり、外国人をもてなそうとしてくれます。町では、以前MSFの病院で治療を受けたおじいさんが「おかげで今こうして生活できている」と小銭や自分の持っていた杖を差し出してくれたこともありました。受け取ることはできませんでしたが、「何かお礼をしたい」という気持ちがとても伝わってきました。
今回の活動を通して大好きになったイエメンの人びと。危険で厳しい生活環境でも、「この人たちのために、逃げずに、目をそらさずに、自分の可能な限りの活動をしよう」と、自分を奮い立たせてきました。
病院とは、心身を休め回復させる場所。安全・安心・安楽が整っている必要があり、紛争地域の医療施設であっても人道的に守られる必要があります。しかし現状では、スタッフも患者も、落ち着いて医療を提供・受診する環境には至っていません。戦争にもルールがあります。妊婦や具合の悪いお年寄り、栄養失調や怪我をして病院に来た子ども達が狙われることがあってはなりません 。時には負傷兵もいるかもしれませんが、1人の人間として治療中です。MSFは、誰に対しても公平に医療を提供するという憲章のもと活動しています。私は戦闘や戦争自体あってはならないと思いますが、そんな中でもせめて、病院は撃つな!子どもや無抵抗な人たちがいる、施設も攻撃するな!と言いたいです。こうした事実を知り、国際社会が声をあげ、さらなる被害が出ないことを祈っています。
病院を撃つな、そして誰も撃つな(白川 優子)
2011年にシリア内戦が起こって以来、公立病院は政府支持者しか受け入れない仕組みになってしまい、他の病院は攻撃の対象となっていました。MSFはこうした状況の中、緊急プログラムを開始。私は2012年と2013年の2回にわたり、手術室看護師として現地の仮設病院へ派遣されました。
紛争地では医療ニーズが確実に増えるにも関わらず、治療を必要とする人々が医療を受けられなくなります。また病院へのアクセスを絶たれるという事自体が人々に恐怖をもたらし、精神にも大きく影響を及ぼします。医療の届かない場所で活動を展開する事がMSFの理念の1つであるならば、紛争地は確実にMSFこそが出向くべき場所の1つであると思います。
私達は傷を負った兵士ももちろん受け入れて治療を提供しますが、実際に収容される患者の9割以上は一般市民です。空爆、砲撃、銃撃によって、日本では見た事もないような酷い怪我を負って運ばれてきます。
外傷以外で医療が必要な人々もいます。もともと存在していた病気やお産などに加え、感染症や脱水、栄養失調など、難民生活や貧困から生み出される病からも現地の人々は苦しめられています。病気や怪我だけではありません。みんなが恐怖と不安、苦しみ、憎しみ、悲しみ、怒りの中で生きている中で、私は目の前の負傷者に対して傷の治療をするだけの活動に、紛争地で援助する事への限界を感じます。現地の人は医療だけではなく、人間らしく生きるために多くの側面からのサポートが必要なのです。
特に印象に残ったのは若者たちです。この間まで高校や大学に通っていた学生が教育の崩壊によって学校に行けなくなり、銃を取る人もいれば、私達の病院で働き始める人もいました。被害に遇って運び込まれる若者も当然いました。怪我をしてベッドで絶望している若者、「学校に戻りたい、勉強がしたい」と何度も何度も話すスタッフ。教師を目指していた、薬剤師を目指していた、歌手になりたかった……それぞれに抱いていた将来の夢は砕け散りました。
シリアでは医療施設だけでなく、市場や学校、礼拝堂や民家といった、戦争には全く関係のない一般市民の生活に関連する場が破壊されています。医療施設が攻撃の対象から外れるべきだという国際ルールは確かに存在します。しかし攻撃の対象となるべきでないのは医療施設のみならず一般市民そのものであり、市民の生活の要となる場の全てが戦争に巻き込まれるべきではありません。病院を撃つな、そして誰も撃つな、というのが数々の紛争地を目の当たりにしてきた経験からこみ上げる思いです。
現地からの声
病院への攻撃がもたらす現実――患者と医師の苦悩
アフガニスタンのMSF外傷センターへの空爆で殺害された現地スタッフの1人、ザビウッラーは詩人でもあり、生前、次の一篇を残していました。
時は過ぎるが、記憶は残る
傷は癒えるが、傷跡は残る
病院施設や患者・スタッフへの攻撃は、心身に深い傷跡を残しました。過酷な体験をした人びとは今も、その記憶に苦しめられています。
「とにかく許せません。なぜ謝罪すらないのか……」(患者・アフガニスタン)
爆発事件に巻き込まれて片脚を失ったシャイスタちゃん。MSFのクンドゥーズ外傷センターの集中治療室に入院していて爆撃に遭いました。暗闇の中から降り注ぐ爆弾。誰もが自分の身を守ることで精一杯でした。
母「そのとき、娘は集中治療室の中でした。夫と医師は『行くんじゃない!逃げろ!』と私を止めましたが、制止を振り切り、集中治療室に飛び込んで娘を抱きかかえました」
集中治療室に入院していた患者で助かったのは、シャイスタちゃんだけでした。
一家は首都カブールに向かいましたが、そこでは治療が受けられず、隣国パキスタンのペシャワールまで行きました。治療費は借金をしてまかないました。
父「生活が一変し、心の問題を抱え、向精神薬が手放せなくなりました。娘は今も、飛行機を見たり爆音を聞いたりすると泣き出します。とにかく許せません。なぜ謝罪すらないのか……」
診療所は爆撃で崩壊、身を隠せる場所もなく(医師・シリア)
シリアでは小児科医でした。妻と2人の子どもがいます。自宅はラッカ市で、「イスラム国」の拠点となってしまった地域です。貧困地区で診療所を経営し、内戦の避難者は無償で診療していました。
ある日、診療所の軒先にいた友人が私の目の前で射殺されました。その1週間後、タル爆弾が隣のモスクに落ち、診療所も巻き込まれて全壊しました。一方、「イスラム国」は医療分野へ手を伸ばすようになりました。それを脅威と感じた多くの国際団体やシリア人医師の国外脱出が相次ぎました。
私は自宅を診療所として医療を続ける道を選びました。「イスラム国」の構成員が昼夜を問わずやってくるようになり、時には強制連行されました。割り切れない思いでした。
続いて「イスラム国」は、支配下の病院での勤務を要求してきました。私は断りました。その結果、脅迫が始まったのです。身を隠せる場所など国内にはありません。家族を守るために、私がまず欧州に行くことを決断したのです。
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国境なき医師団とは
国境なき医師団は、1971年にフランスで設立された、非営利で国際的な民間の医療・人道援助団体です。危機に瀕した人びとの緊急医療援助を主な目的とし、医師・看護師をはじめとする約7000人以上の海外派遣スタッフと、約3万1000人の現地スタッフが、約70の国と地域で活動しています(2015年度)。
私たちと一緒に声を上げてください
「病院を撃つな!」キャンペーンサイトを最後までご覧くださりありがとうございます。私たちは、世界中のすべての紛争当事者に向け、今日も訴え続けています。
それでも、声がかき消されてしまうのです。空爆に、砲撃に、そして機銃掃射の爆音に……。
私たちと一緒に声を上げてください。病院を撃つな!とあなたの声で伝えてください。命を奪う音に負けない大きな声が必要です。