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ハゲタカに食いものにされる日本の教育現場――内田樹×堤未果

2019年07月21日 | 教育・学校

日本の資産が世界中のグローバル企業に売り渡される“ハゲタカ”問題を考える(2)教育現場編

  内田 樹  堤 未果

文春オンライン20197.20

   教職員の長時間労働がブラック過ぎると話題になっている。過労死ラインの週20時間以上残業をしている教員は中学校で57.7%、小学校で33.5%(「教員勤務実態調査」2017)との統計もあるなか、現場を疲弊させる諸政策が打ち出されてきたのはなぜなのだろう。ビジネス化が進みすぎた教育制度にたいして、アメリカの教師たちが起こした100万人デモとは? 学生が食いものにされる実態と再建の道筋を探る。

 

◆◆◆

最低の教育コスト×最低の学習努力

 内田 新自由主義の潮流のなかで、教育分野もまた「ハゲタカ」の餌食になりつつありますね。2004年に株式会社立大学という制度が導入されました。ビジネスマンたちが「大学の教師というのは世間のことを何も知らない。だから、無用のことばかり教えて教育資源を無駄にしている。われわれのような世知に長けた実務家が大学で教えれば、即戦力となる優秀なビジネスマンを育てることができる」と言い出して、特区にいくつか大学を作った。それから15年経ちましたが、いまも残ってるのは二つくらいじゃないですか。あとはほとんどが潰れた。そりゃそうだと思いますよ。ビジネスマンが大学作るとまっさきにするのが人件費コストと教育コストの削減だからです。

  彼らはまずいかにして教育コストを減らすかを考える。言い換えれば、「どうやって教育しないで済ませるか」を考える。ビルの貸し会議室で授業をやったり、教員を雇わず、職員に授業をさせたり、ビデオを見せて授業の代わりにしたりした。学生たちを集めるときも、「最小の学習努力で、単位や学位が得られます」という売り込み方をした。ある株式会社立大学は「一度も学校に来なくても卒業できます」というのが売りでした。

  学習努力が貨幣、学位記が商品だというふうに考えて、それを売り買いするというスキームで考えると、「最低の教育コストで大学を経営しようとする人」と「最低の学習努力で大学を出ようと思った人」が出会えば、そこに「欲望の二重の一致」が成立する。と思いきや、これらの大学はばたばたと倒産した。教育の本質がわかっていない人たちが教育事業に手を出すと必ずこういうことになります。

 構造改革特区法ですね。この法改正は学校を作れるのが「国と地方公共団体と学校法人」という部分に「株式会社」を加えましたが、そもそもの「法の精神」部分についてきちんとした審議がされませんでした。例えば私学には自主性とともに公共性の担保が求められますが、株式会社立という新しい存在はそこについてどう整合性をつけるのか。国家にとってとても重要なこの部分が、置き去りにされてしまったのです。官邸と財界主導で進める構造改革特区の目的は民間活力を使った経済活性化ですから、「既存のルールが経済活動の障害になっている」という事ばかりに焦点があてられる。少子化と過疎化で苦しむ自治体側は、どうしても「収入増・雇用増」が第一の目的になってしまう。でも教育でも医療でも第一次産業や公共インフラでも、最も大事なのはむしろそうした経済的側面以外、元々の法律が守ろうとしていた根幹部分の方なのです。そこが疎かにされてしまっているのが、構造改革特区の最大の問題ですね。

 株式会社立大学でもその副作用が吹き出していたのではないでしょうか。結局教育の質は問わず、頭数だけ欲しいってことですよね。

 

「授業料は取るが、できるだけ教育活動はしない」学校

内田 そうです。東京福祉大学が中国人の留学生を集めて、学生たちが行方不明になったことがニュースになっていましたけれど、この大学も「授業料は取るが、できるだけ教育活動はしない」ことで商売をしていた。理事長は笑いが止まらないくらい美味しいビジネスだと豪語していたそうですけれど、たしかにビジネス的に考えたら、このやり方は合理的なんです。教育コストを最小化したい大学と、最少の学習努力でとりあえずIDが欲しいという留学生の出会いが成立しているわけですから。でも、このウィン―ウィンのビジネスも結局は長続きしなかった。

 こういう仕組みを英語では「学位工場(degree mill)」と呼びます。アメリカは大学の設置基準が緩いので、ビルの一室だけ借りて、サーバーを一個置いただけで大学を名乗っているところがあります。そういう大学では、どんな中身のない論文を提出しても、金さえ払えば学位をくれる。実体のない学位ですが、それでも「欲しい」という人がいる。ジャンクな商品を売りたいという人がいて、ジャンクな商品を買いたいという人がいる。合法的な取引ですから、司法は介入できない。ビジネスマインドで大学を経営したら、教育活動をしない代わりに、大学が発行できる何らかの証明書を売りつけるという商売になるに決まっています。それは学位工場の事例を見ればわかります。

 いまは学生に1年間海外留学を義務づけている大学がけっこうありますね。これもビジネス的に言ったら、きわめて合理的なんです。だって、授業料を満額もらって、留学先の学校にその一部を払って、残りは「中抜き」できるわけですから。1年間まったく教育活動をしないでもお金が入ってくる。教職員の人件費も、キャンパスの維持管理コストも25%カットできる。だって、学生がいないんですから。それで味を占めたら、そのうち「だったら、いっそ2年間海外に行かせない?」って誰かが言い出すでしょう。たしかに賢いアイディアなんですよね。2年留学させたら、教育コストが50%削減できる。学生が半分しかいないんだから、校舎校地も半分で済むし、光熱費もトイレットペーパーの消費量も半分で済む。でも、このロジックを突き詰めると、そのうち「おい、いっそ4年間行かせちゃおう」という話になる。そしたら大学がなくて済む(笑)。

 校舎もいらなくなりますね。

内田 もうキャンパスも教員も職員も要らない。サーバーが1個あれば済む。最初に授業料だけ振込んでもらって「じゃあ、海外のあの大学に留学してください」と言うだけでざくざくと金が入ってくる……わけはないんですけれど、ビジネスマインドで考えたら、大学の利益率が最大化するのは、大学が存在しない時であるということになる。ほんとうにそうなんです。教育活動をしない大学である学位工場が一番儲かるんです。でも、いまの大学人には、このジョークの意味が理解できない人がほんとうにいる。どうして海外留学1年義務化はよくて、海外留学4年義務化はいけないのか、その違いがわからなくて、ぽかんとしている人間が現に大学を経営している。

 銭勘定がうまいだけのビジネスマンが大学の経営をすれば、これと同じ事態が生じます。さすがに「大学をなくす」ということまでは自制しても、「海外留学2年間義務化」くらいのことは思いつきかねない。よその教育機関に丸投げして、それで「いくら抜けるか?」と計算する人間は、そもそも教えたいことがないんです。教えたいことがない人間がどうして大学の経営なんかに手を出すんです? 

 教育というのは本来「持ち出し」でやるものなんです。自分にはどうしても教えたいことがある、だから身銭を切っても学びの場を立ち上げたい。そういう人が教育者なんです。学生を消費者扱いにして、「市場のニーズがどうだ」とか「顧客満足度がどうだ」というようなことを言っている人間は教育にかかわるべきじゃない。

 特区でできた株式会社立の悲惨な末路を知っていたら、いま頃になってまたぞろ「実務家が教えるべきだ」とか「大学の経営にビジネスマインドが足りない」というようなふざけた台詞が出て来るはずがないんです。それと同じことを言って大学を始めた人たちが大失敗した。LECリーガルマインドは5年で募集停止になりました。LCA大学院大学は3年で募集停止になりました。TAC大学院大学は申請段階で却下されました。今回はそれとどこが違うのか。今度ばかりは「前車の轍を踏まない」という自信があるなら、どこがどう違うのか、それを語るべきでしょう。

 さっきも言いましたが、特区の規制緩和の最大の問題はそこですね。投資家が入ってきて、いろんなものが経済性と効率を物差しにシステマティックに処理されてゆく中で、子供達もある種の「商品」としてビジネスの力学に取り込まれてしまう。10年前、『ルポ 貧困大国アメリカ2』の取材現場で嫌という程見た光景です。あのシリーズにはアメリカで起きた事が数年先に日本にやってくる、という警告が込められていたのですが、その後「構造改革」の名の下に、アメリカ発のビジネスモデルが様々な分野で日本に輸入されてきました。

 経済性だけでは価値の測れない教育や医療、第一次産業や公共インフラなどは特に慎重にしなければならないのに、肝心の審議の場に当事者が入っていない。消費者に提供するサービスという位置づけになりますから、この法改正が進むほどに、その実態は教育の本質からかけ離れてゆくでしょう。

 ちなみにそういうビジネスをやっている人に限って、自分の子供はその学校に入れないですよね。

自分の子どもは海外に行かせる日本の“教育改革者”たち

内田 財界人も政治家も自分の子どもは当然のように中等教育から海外の学校に入れてますね。それは一つの見識でしょうから、僕は別にそれに異議があるわけじゃない。でも、自分の子どもを海外の学校に留学させている人たちは、日本の学校教育についてうるさく「ああしろ、こうしろ」と言うことは自制して欲しいと思う。

 以前、ある会議で隣になった人が、学校教育について僕が発言するたびにうるさく反論してくる。どう考えても、彼の言うようなしかたで学校教育を「改革」していったら、子どもたちの学力は低下するし、大学の研究力教育力も落ちる。そういう有害な提言ばかりする。不思議な人だなあと思っていたら、「うちの娘は高校の時からアメリカです。いまはハーバードの大学院に行ってる」と自慢げに言うんです。

 彼は日本の学校教育を見限って、自分の子どもをアメリカに留学させた。だから、「日本の学校教育を何とかしなくちゃいけない」という喫緊の個人的理由は彼にはないんです。彼が日本の学校教育に期待することがあるとしたら、それは日本の学校を見限って、わが子を海外に留学させた私は賢いということを確認することだけです。だとすれば、彼があらゆる機会をとらえて「日本の学校教育が一層ダメになるような提言」をするのは当然なんです。もちろん、無意識にやっているわけで、本人はあくまで善意の提言をしているつもりなんですけど。僕はそういう人物の話は眉に唾を付けて聞くことにしてます。

 そうだとしたら恐ろしく有害ですね。

内田 先日、以前ハーバード大学にいた方が教えてくれたんですが、ハーバードの夏学期になると、日本から政治家の息子とか財界人のドラ息子たちがぞろぞろ来るんだそうです。ハーバードは学費はめちゃ高いですけれど、夏学期だけの学生IDがもらえる。正規の学生じゃないんだけれど、キャンパス内でハーバードの教授の授業を受けることができる。ろくに授業も出ないで遊んでばかりいるんだそうですけれど、日本に帰った後に、「僕がハーバードにいた頃のことですが……」というような話をする(笑)。

 ハーバードの学歴ビジネス……売る方は笑いが止まらないですねぇ(笑)。

内田 別に単位を取ってなくても、学位を取っていなくても、履歴書に「ハーバードで学ぶ」とか「〇〇先生に師事」とか、書き放題でしょ? 嘘じゃないんだから。

 最近の自民党の政治家って、最終学歴がアメリカの大学という人が多いじゃないですか。でも、あの中には、夏期講習とか外国人向けの語学のクラスを受講しただけの人も結構いると思いますよ。たしかに、夏期講習でも、それが生涯最後の大学での受講経験だったら「最終学歴」ではあるわけですからね(笑)。

 安倍晋三は以前の経歴には「南カリフォルニア大学政治学科留学」と書いていましたけれど、実際に取得した単位の半分は外国人のための英語の授業で、政治学は受講していなかった。いまはもう履歴から削除したらしいですけど。

 有権者のために文春さんがそういう方々の一覧でも出しては?(笑)

内田 多少話を盛るのは別に構わないんです。ただ、そうやって「海外留学で履歴に箔をつけようとした人」たちがこの国の教育政策についてあれをしろこれをしろとうるさく言っていることに僕は腹が立つんです。

 この四半世紀、文科省の指示で、教育現場には膨大な無意味なタスクが課せられて、現場は疲弊し果てています。日本の学術的な水準はどうすれば上がるか、若い人たちをどうすれば知的に活性化できるか、といった本筋の問題にはまったく取り組まず、「アメリカみたいなやり方」を導入することに夢中になってきた。FDとか、相互評価とか、PDCAサイクルとか、教育の質保証とか……この四半世紀に大学に押しつけられたタスクはほんとうに膨大なものです。そのために大学教員が研究教育に割くことのできたリソースの3~4割がた削られたんじゃないかな。人によってはもっとかも知れません。特に独立行政法人に移行した国立大学の教員たちはほとんど10年にわたって、会議と書類書きに忙殺された。こういう仕事はたいてい若くて、仕事の手際がよい教員に集中しちゃうんです。このタスクに投じられたリソースを彼らが研究と教育に集中することができたら……と考えると絶望的な気分になります。ノーベル賞何個分かの知的損失だったと思います。

大学教員がシラバスを書くために膨大な手間暇も……

 ああ……会議と事務仕事に大学教員の研究時間を削ることがいかに日本の国益を損ねているか。一握りでもそこから生まれてくる素晴らしいものが、この国の貴重な知的財産だという意識を国のトップに持って欲しいです。

内田 大学のシラバスというものがありますね。この授業でいつ何を教えて、どんな知識が身につくか詳細をリストにしろというものですけれど、そんなことができるはずがない。1年半も先に自分がどんなことに興味を持っていて、学生たちに何を伝えたいと思っているかなんて、わかるはずがない。そもそも、教育的にはまるで無意味なことなんです。

 シラバスというのは工業製品の仕様書なんです。工場で工業製品を作るプロセスを想定して、どういう材料を使って、どういう工法で、どういう効能で、どういう仕様のものを製造するつもりか、それを書けと言っているのです。工業製品の場合だったら、それは必要でしょう。でも、僕らが相手にしているのは、生身の人間ですよ! 工業製品のように規格通りのものを作り出すことなんかできるはずないし、すべきでもない。

 いまも日本中の大学教員がシラバスを書くために膨大な手間暇を費やしています。教育を「工業製品の製造プロセス」のメタファーで考えるということ自体に僕はまったく同意できませんけれど、それ以上に腹が立つのは、シラバスなんか教育のアウトカムに何の関係もないことです。教育効果がまったくない作業に教員たちを忙殺させておいて、それをしないと文科省は助成金を削ってくる。

 現場の先生たちの話を聞いていると、不満が相当溜まっていますよね。こないだも大阪で現役の公立校の先生が実名を出して府を訴えていましたが、もっと束になって声を上げてもいいと思います。アメリカでは教育をビジネス化するための評価制度を始め、様々なことを現場へ強要した結果、100万人規模のデモが起きたんですよ。「こんな事をするために教師になったんじゃない」と、爆発したんです。オバマ元大統領の地元のシカゴでものすごいデモが起きた時のことを覚えています。ブッシュ政権から引き継いだ教育の市場化をさらに強化して、教育予算を巡って学校同士を競争させたんですよ。競争に負けたら補助金ゼロといういじめ、過激なレースをさせたことに教師たちが反乱を起こした。

 教育は社会的共通資本で公教育は国の財産――国の根幹に関わるものなのにどこまでビジネスにするんだと。海の向こうの事ではなく、日本でも同じことです。経済学者の故宇沢弘文氏が繰り返しその価値を訴えられていた「社会的共通資本」について、私たちは今こそ真剣に考えるべきでしょう。結局オバマ政権下では教育のビジネス化政策は止められなかったものの、現場の教師たちが立ち上がり声をあげたことは確実に流れを変えました。前回の中間選挙を見てもわかるように、州や自治体レベルで「ボトム」から少しずつ変わりつつあります。

現場に自由裁量権を与える大切さ

内田 とりあえずアメリカのいいところは文科省がないんですよね。中枢的に全国の教育政策を統括するような巨大な権限を持つ省庁がない。州ごとに教育制度が自主的に決められる。だから、義務教育の年限も州ごとに違うし、進化論を教えない州が出てきたりもする(笑)。でも、それが教育の多様性を担保していて、リスクヘッジにもなっている。

 日本の場合も、都道府県の教育委員会に権限があって、各自治体ごとにかなり自由な教育政策が採択されれば、いろんなことが実験できる。どこかの自治体での教育実践が成果を上げていることがわかれば、それを共有することができる。

 中枢的に政策を統括して、全国一律に同じ教育政策を強いるのは、教育実践の創意工夫のためにはやってはいけないことなんです。子どもは生身なんですから、一律に扱うわけにはゆかない。だから、子どもと直接接する現場の先生にできるだけ多くの自由裁量権を与えた方がいい。いろんな先生がいて、先生ごとに教育理念も教育方法も教育の目標も違っているという環境が子どもが成長する上では一番なんです。40年近く教育現場にいて、それは経験的に確言できます。

 僕は最初東京都立大に勤めて、それから神戸女学院大学に移ったんですけれど、二つの大学の一番大きな違いは、都立大の職員たちには自由裁量権が与えられていないことでした。それは私学に行ってから分かりました。女学院では、現場の人たちが自由裁量権を委ねられている。

 公立大学だと、ガラス窓が一枚割れても、何枚も伝票を起票して、稟議のハンコをいくつかもらわないと修理に来てくれない。でも、女学院では、日常的なトラブルだと、現場の職員さんが、自分の責任ですぐに来て、片付けてくれる。伝票を出せとか、稟議のハンコがいるから1週間待てとかいうようなことを言わない。ずいぶん話が早かった。

 95年の震災の時に、それは骨身にしみましたね。システムがダウンして、業務命令を発令するセンターそのものが存在しない段階から、自発的に教職員・学生が集まって、復旧作業が始まった。この時の作業工程管理は完全に自主的なものでした。誰も命令しない。なにしろ、どれくらいの被害が出ていて、どこから復旧すべきかについて中枢的にコントロールするセンターが機能していないんですから。でも、驚くほど手際よく復旧作業は進んだ。それは女学院には現場への権限委譲という習慣が根づいていたからだということに後になって気がつきました。指示のないことをしてはいけない、権限のないことをしてはいけないというルールで縛られた公務員たちでは、とてもこんな真似はできなかったでしょう。その時に、いちいち管理部門に話を上げて、その許諾を得てから動き出すという上意下達の仕組みの非合理性に気がつきました。「ほう・れん・そう」とか言っている組織が一番非効率なんです。

 でも、日本の組織はほぼすべて中枢が管理する「ツリー」型の組織ですね。多くのビジネスマンはトップダウンが最も効率的だって骨の髄まで信じ切っている。それ以外にもっと効率的な組織があるのではないかということを想像さえしない。でも、現場に自由裁量権を与えること、実際に研究教育のフロントラインにいる人に大幅に権限を委譲するのが、実は一番効率的で、一番生産性が高いんです。

原発事故以来、さまざまな企業でコンプライアンス違反とか、データ改竄とか、仕様違反とか不祥事が起きましたけれど、現場では「こんなことしていたらいつか大変なことになる」というのは分かっていたはずなんです。わからないはずがない。でも、それを上司に具申しても、「黙っておけ」と言われる。うるさく言い立てると煙たがられて、場合によっては左遷される。上は自分の在職中に事件化しなければ、それでいいと思っている。いつかはばれて大ごとになるだろうけれど、その時には自分はもう異動しているか退職しているので、関係ないと思っている。

 現場に権限委譲しておけば、大きなトラブルが起こることは防げるんです。クラフトマンの直感で、「なんかこのメカニカルノイズはイヤな感じがする」といったことがあれば、ちょっとボルト締めておこうとか、クラックがあるかどうか見ておこうか、部品を交換しておこうかということを、いちいち上司にお伺いを立てなくてもできるという体制があれば、そういう事故や不祥事の多くは未然に防げた。僕はそう思っています。

 システムクラッシュを招くようなリスクというのは、だいたい「ジョブとジョブの隙間」に発生するものなんです。誰の仕事でもないし、誰の責任でもないところに「リスクの芽」が発生する。それは気がついた人が自分でさっと「摘んで」しまえばそれで済むことなんです。でも、「ジョブ・デスクリプションに記載されている以外の仕事をする権限はない」とルールで縛られていると、「そこにリスクがある」ということに気がついていながら、手を出すことができない。その結果、カタストロフが発生する。

「問題点を発見したら、自分ですぐになんとかしてくれ」と(笑)

内田 僕は凱風館という武道の道場をやっています。僕は館長ですけれど、「神輿に担がれてる」だけです。特に指示は出さない。会議も開かない。門人たちには「問題点を発見しても僕には通報するな」と言ってあります。「問題点を発見したら、自分ですぐになんとかしてくれ」と(笑)。

 だから、現場に権限を委譲しています。必要経費も最初からまとまった額を書生たちに預けています。「必要だと思ったら使ってください。用途の適否については諸君が判断してください。足りなくなったらまた言ってください」と言ってあります。さすがに畳替えとか、サッシの交換とかいう桁の仕事だと僕のところに相談に来ますけれど、それ以下の金額のことについては事務方任せです。でも、そうやって権限委譲していると、システムトラブルは起きないんです。起きても、すぐに補正される。だから、問題点を発見したり、解決したりするために会議を開く必要がない。年に何度か道場の幹部たちに集まってもらいますけれど、それは僕が皆さんに「一年間、お疲れさまでした」とご馳走するためです。

 現場に自由を与える代わりに、自分の頭で考えてね、と(笑)。トップに覚悟があってこそできるシステムですね。

内田日本の組織の問題は、会議と書類書きにあまりに無駄な時間を費やしていることだと思います。日本社会を立て直すためには、組織の生産性を上げるしかないんですけれど、ほとんどの人はそれをトップダウンシステムを強化して、独裁的な仕組みにすることだと勘違いしている。でも、話は逆なんです。

 まず優秀なメンバーをリクルートする。しかるのちに彼らに権限委譲する。それが一番楽なんです。独裁的な仕組みにこだわる人たちは、前段の「優秀なメンバーをリクルートする」というところでいきなりまずつまずいてしまう。それは、トップダウン派の人たちは、メンバーをリクルートするときに能力よりも「イエスマンかどうか」を優先的に見るからです。どんな無意味なタスクでも、理不尽な命令でも、上の指示に従う人間であるかどうか、それを最優先の採用条件にする。その人がこれから集団内部でどんな能力を発揮してくれるか、どのような点において「余人を以ては代え難いか」ということには副次的な関心しかない。

 たしかに上の言うことに唯々諾々と従う人間ばかり集めたら、効率よく上の意志が下に伝達される組織はできますけれど、そのような組織が生産性の高い組織かといったら、話は違う。イエスマンシップだけを条件に人を集めたら、上の顔を窺って、指示待ちする人間が集まるだけで、自分の頭でものを考え、判断する人間はあつまらない。上の人間が見落としたことを指摘し、上の人間が誤った判断をしたときに補正を提案するタイプの人間がどこにもいなくなる。「自分ではものを考えない人間」ばかりを集めた組織では権限委譲のしようがない。

「独裁的なシステムが有効だ」と主張する人がたくさんいますけれど、そういう人たちは自分の周りには「無能なイエスマン」だけを集めている。自分の指示を口をあけて待っている人間に取り囲まれていることがうれしくてしょうがないんです。自分が次々と指示を出さないと組織がさっぱり動かないのを見て、「オレがいないと何もできない連中だ」と思って、ご本人はいい気分になっている。でも、それは彼が有能だということではなく、無能なイエスマンばかりの組織を自作した結果なんです。いまの日本では、会社だけでなく、行政組織もそうなっています。「安倍一強」とか「官邸支配」というのは、行政の要路に「無能なイエスマン」ばかりを配したことの結果なんです。

どうすれば日本の組織は活性化するのか?

内田 日本の組織を何とかしようと思ったら、まず人材登用の第一条件をイエスマンとするというルールを廃止することです。そして、自分の頭で適否の判断が下せる優秀な人材を登用して、彼らに気前よく自由裁量権を与える。もちろん、いろいろな失敗もあるでしょうけれど、組織が活性化し、イノベーションを起こすためには、そうした方がいいんです。イエスマンたちで埋め尽くされた組織でイノベーションが起きるということは絶対にありませんから。

 かつての大学はその点ではいまよりずっと自由でした。適当に研究費がばらまかれて、研究テーマが社会的に有用かどうか、金になるのかどうかなんて誰も訊きやしなかった。だから、海のものとも山のものともつかないような研究を何年も続けることができた。そういう試行錯誤があるから、時々思いがけない学術的アウトカムが出て来た。研究の95パーセントはたいしたアウトカムを生み出さないものでしたけれど、5パーセントの「当たり」が出たら、研究への投資は十分に元が取れるものなんです。

 イノベーションというのはいつだって「まさか、そんなところから出て来るとは思ってもいなかったところ」から出て来るものです。だったら、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」で予算をばらまくのが効率的なんです。とりあえず研究の成否について予測し査定するコストはゼロになる。

いまは社会的有用性があり、換金性が高いことがあらかじめ証明できる研究にしか予算がつかない。でも、先に何が出て来るかわかっている研究がイノベーティヴであるということは論理的にあり得ないんです。                        

 「イノベーション、イノベーション」と盛んに旗を立てる一方で、組織の体質やシステムの部分が逆行しているという話ですね。大学の研究に関しては、本当にもったいないと思います。その環境を作る側の人の脳内にまずイノベーションを起こさなきゃ!(笑)。

 教育でも研究でもそうですが、「無駄なものイコール価値のないもの」という固まった考えは有害になるので外さなきゃなりません。同調圧力が強い日本のような国で今までにない優れたものを誕生させるには、まず何よりも、自由な発想が生まれやすいのびのびした環境を整える事が先でしょう。環境を作ればメンタリティは後からついてくる。だから枠組みを作る側の責任は大きいのです。トップに立つ人間の価値観・思想によって組織の体質も運命も、大きく変わってしまう。今内田さんが仰ったように、教員を締めつければ、それは巡り巡って日本の知的財産や学校での教育レベル、これから社会に出てゆく子供達の知的レベルにマイナスの影響を与えますよね。現場を細かく管理するのではなく、全員がそれをやる事の真の目的や本質を理解しているか、そこから外れていないかどうかをチェックする事の方が、遥かに重要だと思います。


 総務省によると、参院選の21日午後4時現在の投票率は全国平均22.72%で、前回の27.25%を4.53ポイント下回った。

「上がるかな?」と思ったが厳しいようだ。
それにしても、選挙があることの実感が薄れているのではないだろうか?
田舎に住んでいることもあり、選挙カーを一度も見てないし、候補者の顔すらも見たことがない。チラシも入らないし、ハガキも来ない。
儲けるための「規制緩和」ばかりでなく、こうしたものの規制も緩和すべきだろうとおもう。
そうすれば、少しでも「関心」が高まるのではないだろうか。