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「7月26日」の記憶

2019年07月23日 | 事件

凄惨な事件をどのような言葉で語るか――相模原事件と「一人で死ね」をつなぐもの

丁寧さを欠いた「死を語る言葉」が広まっていくことについて

  Imidas時事オピニオン2019/07/23

    荒井裕樹(二松學舎大学准教授)

「7月26日」の記憶

 2016年7月26日に起きた「相模原障害者施設殺傷事件」(以下、相模原事件)から3年が経とうとしている。被害者やその家族・遺族には、なおも癒えない傷を抱える方が少なくないだろう。

 犠牲となった方のご無念を思い、心よりご冥福をお祈り申し上げたい。

 一方、この事件を追いかける記者や学者たちからは、すでに昨年(18年)あたりから、記憶の風化を懸念する声が漏れている。19名もの命が奪われた凶悪な事件が、わずか2~3年のうちに風化してしまう事態を、私たちはどのように受け止めればよいのだろう。

 もちろん、7月26日に「だけ」、この事件を思い起こせばよいわけではない。しかし、この日に「さえ」、思い起こされないなどということがあれば、それはまさに記憶の風化に他ならない。

 あの事件が今後、社会にどのような影響を及ぼすのかについて考え続けている私にとって、昨年の「7月26日」は本当につらい一日だった。

 この日、オウム真理教元信者6名の死刑が執行された。死刑制度そのものの是非をここで論じることはできない。また、かつての凶悪犯罪を擁護するつもりは微塵もない。しかし、わずか2年前、おぞましい犯罪によって「死」が重ねられた日に、極めて異例とも言える6名の死刑が執行されたことに、酷いめまいを覚えたのだ。

 これに先立つ7月6日には、すでに7名の死刑が執行されていた。その際の報道のあり方(例えばテレビの情報番組では、執行に至る過程がまるで「実況中継」されていた)に強い違和感を覚えていた私は、重ねて6名死刑執行の報道に接し、しばらく感情の整理がつかなかった。

 人の「死」に関わることへの「畏れ」や「ためらい」といった感覚が、社会から、メディアから、言論空間から、急速に失われつつあるように思えてならない。そうした心理的な規制が摩耗していく状況が、不気味でならない。

「死ぬなら一人で死ね」

 本年5月28日、神奈川県川崎市登戸駅付近で起きた「川崎殺傷事件」の報道に接し、こうした懸念を改めて強くしている。

 私自身、犠牲になった外務省職員と同じ歳であり、命を奪われた児童と近い年齢の子どもがいる。決して他人事とも思えないし、無関心でもいられない。

 この凄惨な事件を起こし、自ら命を絶った犯人は、長らく「ひきこもり」と言われる状態にあったと報じられている。事件そのものには猛烈な怒りが湧いたが、犯行時の年齢とかけ離れた写真が出回る様子には驚きを禁じ得なかった。当該人物は、どれほど社会と隔絶した状況を生きていたのだろう。

 この事件をめぐっては、犯人に対する「死ぬなら一人で死ね」というフレーズが物議を醸し、大きな議論となった。一方には、被害者やその家族・遺族の心情を思えば当然の表現だという意見があり、他方には、こうした言葉が「ひきこもり」と呼ばれる状況にある人々への偏見を助長し、更なる絶望へと追い込むとの懸念が示された。

私自身、あの犯行は卑劣そのものであり、許しがたい凶行だと思う。被害者の無念をおもんぱかれば、胸をかきむしりたくなる思いが湧き上がる。しかし、それでも、それでも、「死ぬなら一人で死ね」というフレーズには、どうしても看過できない不気味さが潜んでいるように思えてならないのだ。

卑近な嫌悪感は、卑俗な正義感をまとう

 私は文学者として、「激しい言葉による感情表現」を無下に否定できない。そうした言葉を使わざるを得ない文脈や事情をこそ読まねばならないからだ。

 したがって、もし仮に、加害者を憎む言葉が被害者の私怨から吐露されたとしたら、私はそれを否定できない(私自身、理不尽な犯罪に巻き込まれたら、そうした私怨を吐露するだろう)。静かに、深く、その苦しみを推し量りたいと思う。

 しかし、今回騒動となった「一人で死ね」というフレーズは(あるいは、このフレーズがSNSなどで拡散したという現象は)、こうした私怨に根付いたものとも思えない。果たしてこの言葉は、誰の、どのような「怨」が焚き付けたものなのだろう。

 この問題を考える際に思い浮かぶのは、かつて障害者差別と闘った脳性マヒ者による障害者運動団体「青い芝の会」である。

 彼らは「障害者は生きていても可哀想」「障害者は施設で生きた方が良い」という発想そのものが差別だと叫んだ。こうした発想は、一見「愛と正義」の体裁をとってはいるが、その裏には、障害者への卑近な嫌悪感が隠れていることを喝破したのである。

 「青い芝の会」の問題提起を私なりに咀嚼して言えば、卑近な嫌悪感は、往々にして、卑俗な正義感をまとって現れるということになるだろう。

 このことを念頭に置きつつ、SNSに溢れた「一人で死ね」という言葉を振り返ってみると、やはり、陰鬱な疑問を抱かざるを得ない。

 あれらは純粋に、「被害者感情の擁護」から発せられたものだったのだろうか。そこに冷たく鋭利な感情が混じっていなかったと、本当に言えるだろうか。

 ここで言う冷たく鋭利な感情とは、「役に立たない」「迷惑になる」として排除された者への嫌悪感であり、また、誰かのことを「役に立たない」「迷惑になる」という言葉で切り分け、自身から遠ざけたいとする忌避感である。

 「死ね」という言葉にも様々な含みやニュアンスはあるだろうから、「死ぬなら一人で死ね」というフレーズ自体が、そのまま「殺意の表明」であるとは言えない。

 しかし、もしもその「死ね」という言葉に、特定の人々への嫌悪感が混じっていたのだとすれば、そのこと自体が恐ろしくないはずはなく、そうした言葉が目に見えるかたちで飛び交う状況が、異様でないはずがない。

 こうした言葉がさしたる抵抗感もなくメディアに載り、広がり、降り積もっていけば、この社会はますます、人の「死」に対して、無遠慮で、配慮のないものになっていくだろう。

「自分は『裁く側』にいる」という感覚

 今回の騒動で飛び交った「死ね」という言葉は、漠然としたマジョリティ感覚から発せられていたように思う。その正体をはっきりと名指しするのは難しいが、強いて言うなら、「自分は無条件に『誰かを裁く側にいる』という感覚」である。

 こうした感覚がSNSばかりでなく、今回の火元の一つになったテレビ(特に情報番組)などでも目につくようになり、とても気になっている。

 かつて情報番組で意見を述べる人と言えば、複雑な事情を解説できる学識経験者か、異なる視点を提供できる報道関係者が主であった。しかし、いつしか、「情報の整理」や「異なる視点の提供」よりも、漠然としたマジョリティ感覚を「個人的見解」という体裁で言語化する人物が目立ってきたように思う。

 そのような人物たちから時折こぼれる「~というのが世間一般の考えだと思いますよ」といった類いの物言いが、私には気になって仕方がない。こうした発言は、「個人的見解」を装いつつ「世間一般の価値観」を代弁し、「世間一般の価値観」を伝える体裁で「個人的見解」を開陳していて、不信感を抱かざるを得ないのだ。

 この論法で発言する限り、人はいくらでも責任を回避できる。自身の「個人的見解」に差別的な要素が含まれていたとしても、それは「世間一般の価値観」を代弁しただけなのだから自分という一個人に責任はない、ということになるからだ。

「一人で死ね」にせよ、あるいは「不良品」(※)にせよ、公的な言論空間に飛び交う「死」や「命」への丁寧さを欠いた発言の背景には、こうした「感覚」が潜在しているように思えてならない。

 個人が私的に発信できるSNSに対して、テレビは組織で運営され、指示系統やチェック体制が存在する。その意味でSNSとテレビはまったく違う。にもかかわらず、近年、両者から発せられる言葉は不気味に均質化しつつある。

 今回の騒動は、こうしたテレビが深く関わったということを、私たちは危機感をもって受け止めた方がよい。

私たちが目の当たりにしているのは、SNSだけでなく、テレビというマスメディアからも「凄惨な事件の詳細を伝えつつ、人の死を丁寧な言葉で伝える力」が失われゆく様子なのかもしれないのだから。

「生きる権利」は「一つの意見」なのか

 ここで冒頭の相模原事件に、いま一度、立ち返りたい。

 相模原事件は、犯行そのものの残忍さもさることながら、容疑者を凶行へと駆り立てた歪んだ価値観も衝撃的であった。そして、障害者の尊厳を蔑ろ(ないがしろ)にする容疑者の価値観に対して、「わからなくもない」といった意見から、積極的な賛同・賞賛まで、「同調」の声がSNSに湧き上がった点も衝撃であった。

 あの頃、本当に体調を崩したり、外出に恐怖感を覚えたりした障害者たちが少なからずいたということを知ってほしい。

 この事件も、来年1月から裁判員裁判での公判がはじまる。法廷で、被告がどのような供述をするのかはわからない。憶測で何かを語ることは慎まなければならない。しかし、私にはどうしても拭いきれない懸念がある。

 もしも公判中、被告が犯行前後に発信していたような、障害者の尊厳を蔑ろにする発言が繰り返され、それがメディアによって乱雑に報じられたとしたら、再びSNS上に忌まわしい「同調」の言葉が広がるのではないか、という懸念である。

 もちろん、裁判の様子が報道されないなどということがあってはならない。裁判を通じて、私たちはこの事件の詳細を知り、同じような悲劇が繰り返されないために必要なことを考えなければならない。

 しかし、「障害者の尊厳を奪った事件の詳細を伝えつつ、殺害された障害者の尊厳を守る力」を、すべてのメディア関係者が有しているとも思えない。むしろ、昨年7月の死刑報道や、今回の「一人で死ね」騒動を見ていると、どうしても悲観的な想像をしてしまう。

 まさかとは思うが、相模原事件の被告が障害者の尊厳を否定する発言を法廷で繰り返したとして、それに対して「『障害者にも生きる権利がある』といった意見もある」などといった類いの、気味の悪い両論併記が報道されないことを切に願っている。

「誰にでも生きる権利がある」とは普遍的な価値なのであって、併記されるべき「一つの意見」などではない。もしも、このような両論併記がなされたとしたら、この社会には「一つの意見の範囲内でのみ、生きていてもよい人(生きることを許される人)がいる」ということになる。

 本当にそれで良いのか。

 凶悪な事件には、「社会の歪みの現れ」としての側面が必ずある。したがって、そうした事件について考えることは、私たちが生きる社会そのものを見直すことに他ならない。また一方で、凶悪な事件が「どのような言葉で語られるか」が、その後の社会の「言葉のあり方」を決めていくことになる。

 いま、この社会には、「『生きる権利』や『生きる資格』の有無を、無自覚かつ無遠慮に裁く言葉」が溢れている。こうした言葉の氾濫に与するのか。抗うのか。私たちは決して大げさではなく、分かれ道にいる。


  この度の参議院選挙で当選した「令和」の2人、重度障害を持つ。舩後靖彦氏(61)は、全身の筋力が低下する難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患う。人工呼吸器をつけた全身まひの国会議員の誕生は史上初。もう一人の木村英子氏(54)も脳性まひの重度障害があり、介助者の付き添いが必要だ。

 こうした新たな「現状」に対して「国会」は、「議員」さんたちは、そして「国民」は、どのような対応をとるのか?このような人たちを「当選」させた「有権者」が、こんなにもいたことに拍手を送る。

 今朝、目が覚めて外を見ると雨が降っている。「予報」にはなかった雨だ。パジャマのまま外へ出てみたが、そこそこの雨足だ。PCで「雨雲の動き」を確認すると、雨雲がかろうじてかすめてくれた感じで、まさに、今降ってきたようで、1時間も持たないものだった。畑のある江部乙は、当然「対象外」であった。

皆さんにとってはすでに見飽きたであろう花たち。
雨が少なく、花びらもいくぶん縮れている。

こちらは「北海道の花」亜麻。
今年種をまいたのが花を咲かせ始めた。こちらも水不足。

ハウスの中にやってきたエゾゼミ。