みわよしこ:フリーランス・ライター
DIAMONDonline 2019.12.21 5:17
異様な事件の異様な背景
「パシリ」化したケースワーカー
本年6月12日、京都府向日市の生活保護ケースワーカー・Y氏(30歳)が、死体遺棄容疑で逮捕された。6月1日の土曜日、Y氏の担当していた生活保護受給者・H氏(55歳)が女性を殺害した。Y氏は自ら契約したアパートに遺体を隠していたが、発見され、H氏とともに逮捕されたのだった。Y氏の自供により、共犯者Z氏(52歳)の存在が明らかになり、逮捕された。H氏・Z氏およびY氏は既に起訴されている。
この異様な事件の背景には、H氏がY氏を精神的に支配して「パシリ」化していたという、異様な状況があった。ケースワーカーは受給者の生命線を握っているのも同然の存在なのに、力関係が完全に逆転してしまっていたのである。
Y氏の公判は、10月から開始されている。12月19日、京都地裁でY氏の第3回公判が行われ、事実関係と背景の確認がおおむね終了した。さらに、異様な事件の発生へとつながった経緯が明らかになってきた。
H氏が女性を殺害し、Y氏がその事実を知ったのは、6月1日だった。その日、高く積み上げられた積み木の塔が、ついに崩れ始めたのかもしれない。前日にあたる5月31日までに、何が起こっていたのだろうか。
Y氏は、向日市地域福祉課(福祉事務所)で生活保護ケースワーカーの業務に就いて足掛け4年目、同課では最も経験年数の長いケースワーカーとなっていた。H氏を担当し始めたのは、2018年1月のことだった。
2018年11月、H氏は毎日、Y氏の職場に電話するようになった。電話は、12月に入ると1回2時間程度になり、時には4時間に及ぶこともあったという。閉庁後に電話がかかってくることもあった。代表番号への電話が職場に取り次がれたため、H氏は「閉庁後も通じる」と学習したようだ。
その後は、1日のうちに業務時間内と閉庁後の2回にわたって電話がかかってきたこともあったという。なお、「しょっちゅう長電話になる方がいる」という嘆きはケースワーカーの愚痴の定番の1つだが、通常は30分を超えると「長電話」だ。
H氏からの電話は、当初は世間話やスマホの使い方に関する内容だったという。そこに、生活保護に関する不当要求が交じり始めた。「転居したいので、家主に追い出されたことにして転居費用を出してほしい」「今かけているメガネは壊れていないけど、新しくつくりたい」といった内容だ。
あるときH氏は、スーパーで買い物をし、Y氏に電話をかけて「公用車で荷物を運べ」と要求した。Y氏が当然のこととして断ると、H氏はY氏を激しく罵倒し、「お前が怒ったからメガネが壊れた。保護費で新しくつくれ」と要求をエスカレートさせたという。
元暴力団員の洗脳スキル
翻弄されながらも必死の抵抗
筆者は、H氏が暴力団員として培ってきた対人関係スキルに驚嘆した。無害な内容と問題ある内容をランダムに織り交ぜ、相手の警戒心を解きつつ混乱させることは、洗脳の手法として知られている。
また、スーパーからの荷物運びに関しては、当初は「生活保護受給者の買い物を公用車で運ぶ」という制度の想定外の要求をし、断られると「メガネが壊れたので保護費で新規給付」という制度内の要求へとエスカレートさせている。制度内の要求を断らせて“貸し”をつくり、想定外の要求を呑ませる作戦と推察される。
Y氏は一貫して、「公務員として、自分はどう行動すべきか」を考え続けていたという。6月1日、H氏の殺人事件が発生するまでは、不当な要求に対して毅然と対応することを心がけていた。しかし毎回、「気分を害したH氏が、要求をエスカレートさせ、部分的に応じざるを得なくなる」というパターンが繰り返された。H氏が一応の満足を示すまで、半日かかったこともあるという。
Y氏はこれらの出来事を、可能な限りケース記録に残していた。また、生活保護の査察指導員でもある上司に対し、口頭で報告もしていたという。しかし上司の対応は、「今回は仕方がない」「四角四面でもしょうがない」「もっとへりくだった断り方を」といった“指導“に終始していたという。
孤立無援、現金の強請り、
そして土曜日の殺人事件へ
Y氏がケースワーカーとして、H氏の不当な要求に応じずにいると、H氏は激昂して「上司を出せ」と言うことがあった。Y氏が上司に電話を回すと、上司はH氏に「Yが至らず、すみません」と答え、怒りを収めたH氏は「Yは自分が指導する」と答えた。Y氏に戻ってきた電話の向こうで、H氏は「上司もお前の非を認めている」と新たな要求を突きつけ、謝罪を求めたという。
恐怖に押しつぶされ、疲弊し消耗したY氏は、電話の着信音が聞こえるだけでストレスを感じ、上司に報告する気力も失っていったという。報告しても、結局はH氏にまた責められるだけである。Y氏は新年度の異動希望を人事に提出し、日々の業務の苦渋について詳細に書き込んだが、希望は叶わなかった。
さらにH氏は、Y氏の携帯電話の番号を知りたがり、「携帯番号を教えろ」「異動するまでには教えてもらう」と迫り続けていた。H氏には異動後も関わり続ける意図があったようである。
そして2019年4月、訪問調査の折、Y氏はついに「有無を言わさず」という態度のH氏に携帯番号を知られた。その後、職場と携帯電話の両方に電話がかかってくるようになり、頻度も通話時間も増加した。
Y氏はさらに消耗し、健康状態が悪化した。それでも、休職という選択肢は現実にならなかった。前年度、5人いたケースワーカーのうち1人が、精神的に追い詰められ、他部署に異動していたからだった。Y氏は、自分の休職が職場に及ぼす負担を考えると、休職に踏み切れなかった。4人のケースワーカーは1人で100世帯以上を担当し、Y氏の担当世帯は110世帯になっていた。事件当時は101世帯に減っていたが、厚労省が定めている標準は、都市部で80世帯である。
さらにH氏は、Y氏を脅し、現金を要求していた。保護費ではなくY氏の私費ではあるが、10回ほどにわたってH氏に渡された現金は、合計100万円に達したという。Y氏の本来の業務は、その現金を収入認定し、H氏に返還を求めることだ。しかし筆者には、遂行できる状況だったとは思えない。
そして6月1日、H氏は女性を殺害した。土曜日だったため、H氏からの電話は、Y氏の携帯にかかってきた。共犯者のZ氏の前で、H氏に「殺す」と脅されたY氏は、結果として死体遺棄に協力することとなった。6月11日、逮捕されたY氏は、「もうこれで、H氏から脅されることも殺されることもなくなる」と、ホッとしたという。
当時も現在も、Y氏には「公務員として、してはならないこと」という自覚はあった。しかし、成り行きは止まらなかった。
地方分権改革の終着点近くで
起こった悲劇ではないか
むろん、生活保護ケースワーカーの業務が“キレイゴト”で済むはずはない。周囲を困惑させる行動、児童虐待が疑われる状況、そして暴力など、「処遇困難ケース」の課題は常にある。「複数のケースワーカーで対応する」「警察OBを配置する」といった選択肢もある。しかし、万能の解決策はない。
関西の中核市の福祉事務所で査察指導員を務めるCさん(30代)は、「向日市は“ケースワーカー自己責任論”に陥っているのではないか」という疑問を語る。
「私たちは、貧困問題の最前線にいます。『貧』と『困』が重なった方々は、自らSOSを出せないことが珍しくありません。SOSを出さない責任をご本人に求めて“貧困自己責任論”で切り捨てるのではなく、そのSOSをキャッチできる社会をつくっていく必要があります。私たちは、その責任の一端を担っているはずです。でも都市部で、ケースワーカー1人が110世帯以上を担当していると、余裕がなさ過ぎて、隣の席のケースワーカーが困り果てていても助けられません」(Cさん)
結果として、Y氏のメンタルヘルスは、良好な状態ではなくなっていた。Y氏個人に対する何らかのサポートは必要だったはずだ。しかしCさんは、それだけでは不十分だと考えている。
「個人のメンタルヘルスの問題ではなく、組織の在り方の問題でしょう。全般的な人員不足の問題もあります。組織でケースワーカーを支えられる制度を、どうすればつくれるのか。現実的に考える必要があると思います」(Cさん)
人員不足の原因は、地方分権改革の名のもとで続く公務員削減だ。とはいえ、何もできないわけではない。たとえば神奈川県小田原市は、2017年の「保護なめんな」ジャンパー事件を契機として全庁的な改革に取り組み、福祉事務所の孤立とケースワーカーたちの孤立を解消し、生活保護行政に関して多様な取り組みを重ねている。
元ケースワーカーで、小田原市の生活保護改革にも関わった櫛部武敏さん(釧路管内生活相談支援センター長)は、経験を踏まえ、次のように語る。
「当事者である担当ケースワーカーは、どれほど困り果て、心細かったことでしょうか。推察するに余りあります。そもそも『行政を対象とした暴力』という認識が、向日市の全庁的に、また上司にあったのかどうか疑わしいという印象も持ちました。研修に基づく対処マニュアルや訓練など、市としての構えもなかったのではないでしょうか」(櫛部さん)
司法はこの異様な
事件をどう裁くのか
その認識や構えは、行政が行政である以上は当然のこととして求められる。
「公平・公正な行政の遂行には、組織としての毅然とした意思が欠かせません。職員を守り、職務遂行の防波堤になるのが管理職であり、市役所組織ではないでしょうか。『ケースワーカーの対応が悪くてすみません』と個人に責任を押しつけるとは……。保身でしかなく、管理職としてあるまじきことです。『許しがたい』と感じます」(櫛部さん)
民間企業でこのような状況が続くと、優秀な社員から転職していく。いずれは企業活動の継続が危機に瀕し、市場から退場させられるはずだ。しかし行政組織は、危機に瀕しても退場できず、住民や民間企業を巻き込むことになる。筆者は、この20年間で加速した行政組織の縮小こそ、危機の正体だと考えている。
この状況を、司法はどう認識し、判断するだろうか。司法の認識と判断は、今後のY氏の公判と判決に、どう反映されるだろうか。引き続き、関心をもって見守ろう。