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【御巣鷹山から37年】123便

2022年08月11日 | 事件

【御巣鷹山から37年】「なぜ、救助は翌朝に?」天国の夫に誓う墜落の真相究明

 2022/08/07 『女性自身』編集部

 「21年間の結婚生活で夫婦げんかは一度もありませんでした。

百貨店に行けば、私を着せ替え人形のように頭の先から爪先まで、ぜんぶコーディネートしてくれた主人です。

 生まれつき股関節脱臼がある私を『歩けなくなったら、必ずおんぶしてあげる』と。

この幸せが、ずっと続くように祈っていました。

あの年の8月12日、主人は急な日帰り出張で東京に行きました。

帰りの飛行機の前に電話をくれた主人は、とても疲れた声でした」

それが、吉備素子さん(79)が聞いた最愛の夫・雅男さん(享年45)の最後の肉声だった。

「いまから帰る。19時に伊丹空港に着く便に乗るーー」

 

■「主人がなぜ亡くならなければならなかったのか?」

1985年8月12日に発生した日航123便墜落事故。

 群馬県上野村の御巣鷹の尾根に18時56分に墜落した羽田発大阪行き(ボーイング747)には、乗員・乗客524人が搭乗していたが生存者はわずか4人(すべて女性)。520人もの尊い命が犠牲となった単独機世界最大の大惨事だった。
犠牲者の中には、国民的歌手の坂本九さんも含まれていた。

  また、同事故を扱った山崎豊子原作の映画『沈まぬ太陽』(2009年)では主演の渡辺謙が航空会社社員として遺族の世話役を演じた。

 夫の雅男さんはその犠牲者であり、吉備さんは遺族となったのだ。

「4カ月間、私は遺体安置所で、身元不明の部分遺体をひとつずつ手に取って、主人を捜しました。でも主人は手も足もバラバラで、ぜんぶは見つかりませんでした」

 9月の誕生日で満80歳となる。昨年は大腸がんの摘出手術をした。さらに先天的な股関節脱臼で激痛があり、歩くのには杖が必要だ。

  そんな吉備さんが日航に対し、民事訴訟を東京地裁に起こしたのは、2021年3月26日のこと。当初、この7月に判決予定だったが、8月25日の口頭弁論を経て、9月以降になる見込みだ。

 「墜落機のボイスレコーダー(音声記録装置)とフライトレコーダー(飛行記録装置)の生データ開示請求」が趣旨だが、なんと発生から36年、日本では同事故の裁判が一度も行われてこなかった。

 それを、なぜいま吉備さんが、ひとりで闘おうとしているのか。

 「ひとえに、主人がなぜ亡くならなければならなかったのかの事実、真実を知りたいだけなんです。

 今日の今日まで、日航から直接、事故原因を説明されたことなど、一度もないんですから」

 同事故は、事故調査委員会の1987年の事故調査報告書で「ボーイング社の修理ミスが原因で後部圧力隔壁が破壊、急減圧が発生し垂直尾翼が吹き飛ばされたことが原因」とされ、ほとんどの人が「不運な事故」と記憶しているはずだ。

 しかし吉備さんは目を見開いて「真実は明かされていないんです」と訴える。

 「日航や国の対応は辻褄が合わず、おかしな点ばかり。夕方に墜落したのに救助は翌朝やっと始まった。夜に始めていれば100人ほどは助かったのではとも聞きました。

 国も日航も、なにか隠している。私は墜落原因にずっと疑問を持ってきました」

 今日までの出来事と疑問、闘いのすべてを振り返ってもらった。

(なお、判決の行方は、河出書房新社より10月25日に発売される青山透子さん著『JAL裁判 日航123便墜落事件と1985』で詳しく綴られる)

■「家に帰ると、その日の出来事をすべて私に報告するのが、主人の日課でした」

 「私が生まれて3カ月のとき、父はニューギニアで戦死しました。私には父の記憶がないんです」

  1942年9月24日、朝鮮生まれ。歯科医の父と石川県出身の母とのあいだに生まれた、3人きょうだいの末っ子で次女が吉備さんだ。

 3歳になる年に終戦を迎え、その12月に一家は引き揚げの途に。

「すでにロシア兵が侵攻していて、一家で歩いて38度線を越えました。足が動かなかった私を、母が背負って歩いてくれたんです」

 命からがら「おんぼろ船に乗り込んで」父の実家の徳島県へ。

成長につれ股関節は丈夫になり、小学校には杖なしで歩いて通えた。

 その後、学生時代の吉備さんを見初めたのが、雅男さんである。

「3歳上の雅男さんと学生同士の集まりで知り合いました。でも私は最初、逃げ腰だったんです」

というのは雅男さんの外見が、いわゆる“コワモテ”だったから。

だがそのうち、彼の内面のやさしさ、包容力に気がついた。

「長男で、責任感が強い人とわかってきました。逆に私は末っ子で、甘えたいところがあった。

 股関節のことでいつかは歩けなくなる覚悟をしていましたので、『歩けなくなったら、必ずおんぶしてあげるよ』という雅男さんの言葉が、温かかったんです」

 大学で薬剤師の資格を取得した雅男さんが製薬会社に就職した後、2人は結婚。長男、長女も授かり、幸せを実感する日々を迎えた。

 「主人はたばこを吸わず、お酒も仕事のつき合い程度。家に帰ると、その日の出来事をすべて私に報告するのが日課でした」

 そんな雅男さんに、吉備さんはかなり溺愛されていたようで。

「私が家から徒歩数分のパン屋さんに行くのも心配で、幼少の娘に『迎えに行っておいで』と後を追わせ、次に息子を。最後は本人が店の前で私を“出待ち”していて」

吉備さんも、夫に献身した。

 「主人は朝6時半過ぎには家を出ますから、私は4時起きで、まず自動車を拭いて、靴を磨き、家族全員分の食事を支度します。

 そして、主人の仕事に役立つようにと、経済や医学の新聞記事に赤ペンで丸をつけるんです」

 ほほ笑んだ吉備さんが、表に目を向けるように言った。

 「車の運転席に主人、隣が長男で、後ろに長女と私。

 そんな休日には幸せをしみじみ感じました。『この幸せがずっと続きますように』と天国の父に祈っていたんです」

夫45歳、妻42歳、幸せの絶頂にいたはずが、あの日、一変する。

■バラバラになってしまった夫を必死で探しまわった

 1985年8月12日、夕刻。 東京から帰阪する予定の夫を、長男が伊丹空港に迎えに出ていた。

「19時過ぎ、その息子から電話で『いつまでたっても出てきへん』と。いつも、真っ先に降りてくる主人がです。慌ててテレビをつけたのが19時半ごろでした……」

テレビから飛び込んできたのは、

《日航123便が、レーダーから消えたもようです》

近所に住む妹夫婦に、すぐ空港まで送ってもらった。

「主人が乗った飛行機だとわかっていました……でも、無事をひたすら祈っていました」

夫の同僚も駆けつけた。そして。

 「《墜落した》とだけわかりました。でも《場所はわからない》と」

 搭乗者名簿の報道に夫の名が出たのは、23時過ぎだったと記憶している。

 一旦帰宅し「一睡もせず」翌朝7時の飛行機で上京。「群馬方面」へのバスの道中、11時前に《生存者4人発見》の速報が。

 「でもなぜか『主人はダメだろうな』と感じていました。群馬について、トイレに行く気も食欲もなく体育館で待機していると、16時過ぎに警察が『調書を取る』と」

そこで夫の持ち物、身体の特徴、服装、カバンの中身などを聞かれるにつけ「ふつうの状態では見つからないのだろう」と観念した。

 「体育館には次々遺体が収容され、17日には身元確認に遺族2人までが入れることになりました。

でも、虫の死骸を見るのも苦手だった私は長男と義弟に止められて、彼らが先に入ったんです」

ほどなくして、雅男さんと似た遺体の一部が見つかったといわれたが、吉備さんが確認すると一目瞭然で別人とわかった。

「ちょっと擦りむいたり、筋肉痛があるだけでも『痛い、痛い』って私に甘える人でしたから、どこに傷があるかも全部わかっているんです」

 当時、検視では、頭部と胴体がつながっている遺体を「完全遺体」、両部が離れた遺体および顔や手足など一部のみの場合を「離断遺体」(部分遺体)と呼んだ。

群馬県警高崎署で身元確認班長を務めた飯塚訓さん著『墜落遺体』(講談社)によれば同事故の検視総数は《2千65体》。つまり《520人の身体が、2千65体となって検屍された》というのである。

このような想像を絶する状況で、吉備さんは「必死になって主人を捜し回った」と述懐する。

「家が好きだった主人を、早く家に連れて帰りたい一心でした。あるとき子どもさんの棺を開けてしまったんですが、そこに納められていた小さな右手が、ひと目で主人のものとわかったんです」

なぜ小さな右手を雅男さんだと確信できたのだろう。「ダメだ」と警察に制止されるも食い下がり、指紋の照合を懇願している。

「5時間ほど後に、指紋が一致しました。焼かれたら縮むんですね。すっかり小さく、やさしい手になっていたけれど、指の短さなどが夫の手でした。主人を見間違うはずがありません」

棺にはズボンも置いてあった。

「主人のズボンに違いありませんでした。そして棺には、太ももの途中から足首までしかない右足があり『B型』と書かれていた。

でも主人は『O型』ですので、警察に引き取られてしまい、『もう一度、正確な血液検査をしてください』とお願いしました」

■抗議に出向いた日航の本社で、当時の社長はブルブルと震えだした

 翌日には、傘だけすっぽり抜け落ちたカバンが、ほかはあの朝、詰めたのと同じ状態で見つかった。そして19日、右手とズボンとカバンだけ荼毘に付すことに。

  「知人が般若心経を写経した着物を届けてくれて。でも、頭も体もありませんから、日本赤十字社の看護師さんが新聞紙で主人の全身をかたどって、顔の部分も包帯で巻いてくれたんです」

 その夜は、夫の骨壺を「肌身離さず抱いて」明かした。

 「亡くなったことは受け入れなければいけない。でも、わかってはいるけど、空虚な感じでした……」

  残りの遺体確認を続けるなか、10月には、再検査を依頼していた右足が勝手に荼毘に付されてしまっていたことが発覚する。

 「『話が違う』と抗議しました。さらに『政府が部分遺体すべてを10月中に荼毘に付す予定だ』と聞き、日航の社長に会いに行ったんです」

  一遺族に一人ついた「世話役」の社員が帯同し、本社に高木養根社長(当時)を訪ねると。

 「彼は墜落現場に行かず、黒焦げの遺体も見ていないことがわかった。私は『あのような状態で荼毘に付しては浮かばれない。520人の命を持って中曽根(康弘)首相に直訴しましょう』と言いました」

 すると高木社長は「ブルブルと震えだした」というのだ。

「そして『そんなことしたら私は殺される』と怯えているんです。『なぜだ?』と疑問に思いました」

  その後、部分遺体を荼毘に付すのは延期され、雅男さんの背中の一部と右足首も見つかった。

  12月の合同葬の前日、吉備さんは身元不明の残りの部分遺体すべてに、両手をさしのべている。

「2時間くらいかけて『捜し当てることができずに、ごめんなさい』とお詫びしていました」

【後編】【御巣鷹山から37年】遺族の闘い「裁判に勝って、すべての真実を明らかに」

 「ひとえに、主人がなぜ亡くならなければならなかったのかの事実、真実を知りたいだけなんです。

  今日の今日まで、日航から直接、事故原因を説明されたことなど、一度もないんですから」

1985年8月12日に発生した日航123便墜落事故。

 その遺族である吉備素子さん(79)が日航に対し、民事訴訟を東京地裁に起こしたのは、2021年3月26日のこと。当初、この7月に判決予定だったが、8月25日の口頭弁論を経て、9月以降になる見込みだ。

  1985年当時から吉備さんは、おもに次の4つの疑問を抱いてきた。

第1に、墜落場所の特定が遅れ、救出が翌朝になったこと。

第2に、相模湾に落下し沈んだ垂直尾翼などの残骸が「引き揚げできない」と結論されたこと。

第3に日航の高木社長(当時)の「私は殺される」という不可解な発言。

第4は、群馬県警事故対策本部長・河村一男氏に言われた「事故原因を追及したら、米国と戦争になる」発言。加えて同氏が退職後、関西で再就職した後の次の言動。

「あるとき突然電話がかかってきて、私を『監視するためにわざわざ関西に来ました。ずっと見ているから』と言うんです。その後も計3度ほど、電話で言われました」

 だが、そもそも遺族の疑問は、「日航側が一度も事故原因の説明をしていない」ことに起因する。

 「なんの説明もないから、遺族は疑問をぶつけようがない。論点の整理もできない。『取り合わない~はぐらかす』の繰り返しで疲弊させられるばかりでした」

 そんななか、遺族は最終手段として訴訟を“試みた”のだが……。

 1986年4月、日航、ボーイング社、運輸省各幹部を業務上過失致死傷罪と航空危険罪違反で告訴するも、1989年11月の東京地検、1990年7月の前橋地検ともに不起訴処分。

 民事では1986年7月、吉備さんら70人が米国ワシントン州で損害賠償請求をしたが、「日本の裁判所で決定すべき」とされ、1990年8月に同州最高裁が上告棄却。同月、公訴時効が成立してしまった。

  ほかに損害賠償請求は計32件あったが、すべて「和解」し、真相究明にはほど遠い決着に甘んじた。

 「遺族の疑念は報告書の完成で封じ込められました。遺族の悪口を吹聴する世話役もいて、遺族間の分断が狙いだったんでしょうか。

 私も、高木社長の『殺される』発言や河村さんの監視が無意識の脅威となって、声を上げる場所を失ってしまいそうでした」

■「すぐ救助していれば助けられた命があったのに……」

そんな窮地を一冊の本が救う。

 元日航客室乗務員の青山透子さんが2010年に著した書籍(現タイトル『日航123便墜落 疑惑のはじまり 天空の星たちへ』河出書房新社)で、同事故の疑問点に初めて光が当てられたのだ。

 「報告書の矛盾など数々の疑問を指摘していました。地元選挙区の中曽根首相が事故後3カ月も現場入りしなかったことも、検証していた。強い味方を得た思いでした」

 2011年8月、吉備さんは上京し、青山さんに思いの丈をぶつけた。

 「そこから青山さんがさらに取材を深め、個々の疑問が集約されて“争点”に変わっていきました」

のちの発表分も含む青山さんの著書群から要点の一部を抜粋する。

 《当日18時24分に後部圧力隔壁が突風で破壊されたとの報告書の結論は、付近の生存者が誰も吹き飛ばされなかった事実と矛盾する。

 報告書・付録(2013年公開)には、垂直尾翼のほぼ中央に「異常外力の着力点」と印が明記されている。

 群馬県警本部発行の冊子に手記を寄せた自衛官、文集に作文を書いた上野小の児童など、ジャンボ機や追尾するファントム2機の目撃談が多数あった。

 なかにはジャンボ機の胴体に楕円に付着していた朱色か赤色や、「真っ赤な飛行機」の目撃談もある。

 上野村村長は墜落直後に国や県に「墜落現場は当村」と電話連絡。

 米軍元中尉は墜落20分後に輸送機で現着したと後に証言。

 事故直後に現場は特定されていたはず》

 これらの要素を総合し青山さんは次の仮説を立てている(要約)。

 《相模湾上空で、123便の垂直尾翼の「異常外力着力点」にテスト飛行中の自衛隊模擬ミサイルか朱色の標的機が衝突したのが原因だ。

 墜落場所を知りつつ救助開始が遅れたのは、自衛隊が証拠の隠蔽工作をしていたからではないか》

 これを「にわかに信じがたい」と訝る向きもあるかもしれない。

 だが同時期、自衛隊の海上でのミサイル飛行テスト実施状況が各紙で報じられていた。

 中曽根政権が防衛費1%枠の撤廃や国産ミサイル開発を推進するただ中だった。

 また墜落現場でほぼ完全状態で発見された重要証拠の圧力隔壁を、事故調査委員が来る前日の15日に自衛隊が大型電動カッターで5分割してしまったのは事実である。

  吉備さんが声を震わせて言う。

 「救助された落合由美さん(当時26歳、CA)の証言では墜落当夜、現場で『おかあさん』とか『ようし、僕は頑張るぞ』という声が、しばらく聞こえていたといいます。

川上慶子ちゃん(当時12歳、生存者の1人で、両親と妹を失う)は、しばらく妹さんと会話できていたようです。すぐ救助していれば助けられた命があったのに……」

 もはやボイスレコーダーの開示検証が必須なのは明らかだろう。

 だが、報告書に記されたレコーダーの会話には空白部分が多く、存在するはずの高濱雅己同機機長とファントム機などとの通信記録が欠落しているのである。

  吉備さんは決意を固めた。

  2020年7月、三宅弘弁護士や経済アナリストの森永卓郎さんらの協力で「日航123便墜落の真相を明らかにする会」を発足し代表就任。

  そして2021年3月26日、日航に対してボイスレコーダーとフライトレコーダーの生データ開示を求める民事訴訟を起こしたのだ。

  当日、吉備さんはビデオメッセージで第一声を発した。

「疑問点を払拭するために立ち上がりました。

日航の持つ情報をすべて明らかにしてほしい、ボイスレコーダーを直接聞かせてほしい。

それが夫をはじめ520人の供養になり、遺族の当然の権利です」

 いま、吉備さんは520人の魂とともに闘っているのだ。

■「主人がそばにいなければ、私は安心して泣けない」

 「医師から『手術が必要。外出は禁止』と言われてしまいました」

かねて吉備さんは判決を見届けようと上京のためのトレーニングをしていた。

それは、自宅近くの坂上にある夫のお墓への日参。

「朝4時起きで、往復1時間かけて歩いていました。そうしたら股関節に無理がかかってしまい、夜も痛くて眠れなくなって……」

  裁判では生データ開示を求めているが、被告は過去の新聞記事を証拠に「仮に情報提供義務があるとしても、すべて和解しているため義務は生じない」の一点張り。

  8月12日、37回目の命日にはまだ、判決の報告はお預けとなる。

 「きっと日航は、はやく私が死ねばいいと思っているでしょうね。

でも、絶対にくたばりません。

 事故以来、主人のために泣けていないんです。主人がそばにいなければ、私は安心して泣けない」

 そうして吉備さんは携帯ストラップの雅男さんの写真を見つめた。

遺影の威厳ある表情に比べると、髪を刈り上げ、より精悍な若き夫。

「主人の右手が見つかったとき、私は『やっと家に連れて帰れる』と狂喜しました。

でも姉が『なんで喜ぶの? 雅男さんが、亡くなったってことなのよ』と。

頭から冷水を浴びせられた思いでした」

 幸せな日常を理不尽に引き裂かれたあの夏の憤怒を、37年の星霜を経たいまも、吉備さんは微塵も風化させていないのだ。

  「主人の戒名『玅響院釋了信』は、『言いたいことがある、世界に響き渡ってほしい』という意味だと聞きました。

私には『事故原因を明らかにせよ』という主人の遺言のように響いているんです」

  勝ってすべての真実が明らかとなり、愛する夫に向き合って伝えられるその日まで。

 (取材・文:鈴木利宗)



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