「東京新聞」社説 2020年8月15日
期せずして、コロナ禍に迎える終戦の日です。疫病と戦争と。二つの「非常」をたどりつつ、これからの「日常」を考えます。
たとえば外出自粛が解けた五月の日。久々に公園にはじけた親子の笑顔にも、ふと心が和んだように。私たちがこの非常時に気づかされたのは、何げない日常の大切さ、ではなかったでしょうか。
それはまた、戦後の日本人が過酷な戦争を体験してこそ実感した「平和の尊さ」と似ているようでもあります。けれども終戦当時の人々に、その尊さをしみじみ実感するような暇(いとま)は、ほとんどなかったかもしれません。
戦後間もなく、市民の穏やかな日常生活を描く裏側に、戦争の幻影をにじませた独特の映画がありました。大方はお分かりでしょうか。邦画の巨匠、小津安二郎監督の手になる何本かです。
四十歳すぎまで苦難の戦歴を経た監督は終戦翌年に帰国後、戦争を意識しての映画づくりに没頭します。一九五一年公開の「麦秋」もそんな一本でした。
三世代が同居する家族の日常ドラマを背景に、長女が嫁ぎ、長男一家を残して老夫婦も地方に隠居する。互いの幸せを思い、離れていく家族の哀愁が描かれます。しかし、この映画には仕掛けがありました。
いまだ戦地から戻らぬ次男の影が家族の心裏に忍び込み、姿なく日常に居座るのです。息子の戦死を諦め切れぬ母親はラジオの尋ね人番組に毎日耳を傾ける。「(次男は)もう帰っちゃ来ない」と諦めを促す父親に、母親が納得いかないふうで宙空をにらむ場面が、力を放っていました。
麦秋とは麦を収穫する初夏のころ。映画は老夫婦が見渡す一面麦畑のシーンで終わります。
◆死んでも諦め切れない
その麦秋に重ね、人生のいわば収穫期に差しかかる夫婦が、横並びで静かに言葉をたぐります。
「みんな離ればなれになったけど、しかしまあ私たちはいい方だよ」「欲を言えば切りがないが」「でも本当に幸せでした」
次男のことにはあえて触れず。自然が導く運命への達観と諦観が二人の胸中を行き来します。
だけど、家族の命を奪ったのは自然ではなく人為の戦争です。死んでも諦め切れるはずはない。日常に引きずる戦争へのそうした遺恨こそが、当時の人々の本音ではなかったでしょうか。小津監督もその同世代にいたはずです。
<小津自らの映画製作のこだわりとは、この国が抱えた「戦争はいかにして我々の日常を殺すか」というテーマだった>
昭和史研究で知られる保阪正康氏が自著「太平洋戦争を考えるヒント」(PHP研究所)で説く小津映画論の一節です。その視点から戦争と社会を見つめた「小津という映画人は、実は誰よりも強く『非戦』を訴えていた」とも。
人々の日常を壊す戦争への強い忌避感。小津映画に貫かれたのは終戦世代の遺恨を集めた、まさに「非戦の魂」でした。
時代は遡(さかのぼ)って一九一八年。十五歳の小津少年は十代を過ごした三重県松阪市で、別の「非常」に遭遇します。日本で感染死者三十九万人と猛威を振るったスペイン風邪が身辺に迫っていました。今も市の顕彰施設に残る少年の日記が、当時の日常を伝えます。
十一月、感染で学校を休んだ友を気遣い、休校で試験が延期となれば“しめしめ”と素直に喜んだり−。
戦争への憎悪に比べれば、自然がなせる疫病には少年の、どこか鷹揚(おうよう)な構えものぞきます。いうなれば非常と共存する日常の風景でした。
そして一世紀後の今日。コロナ禍にもがく私たちの社会でも、非常と共存し、互いに支え合う「新たな日常」が語られます。
今が終息しても、新たな疫病は形を変えてまた現れるでしょう。非常時に支え合う日常のありようも、その形に合わせ、続いていくのかもしれません。
何げない日常が長く続くには、戦争に壊されぬ平和の礎がまずは必要です。平和でこそ公園に笑顔もはじけ、心も和むのでしょう。
しかし平和もまた人為です。根底に、戦争を拒否する人間の強固な意志がなくてはならない。
◆世代の責任果たさねば
日本人の平和主義は、戦争に日常を壊された終戦世代からの「非戦の魂」を、代々の意志としてつないできました。戦後七十五年。今あらためて実感する平和な日常の尊さです。
大切なこの平和を受け継ぐ私たちも無論、世代の責任を果たさねばなりません。それは、コロナ禍との日常を体感した現世代なればこそ果たせる責任かもしれない。どんな非常時にも日常の礎に「非戦の魂」が座り続けるよう、しっかりと後世へつなぐ責任です。
麦秋(予告)
以前、無料で全編見れたのに、今は予告編しかありませんでした。