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うちなー→えぞ日記 (もとすけのつぶやき)

奈良県出身、沖縄での学生生活を経て、北海道ライフを堪能する、
とある研究者の日常のよしなしごとの紹介。

初めての街角ポートレート撮影

2007年01月17日 21時17分57秒 | うちなー日記(沖縄編)
今日は、夕方から工学部の学生の依頼で、新生児、那覇市の街角の人々の笑顔、赤ちゃん(三ヶ月)を撮影してきました。
依頼が来たのは先週の金曜日の写真部部会中で、なにやら広告の写真を撮るために1000万画素以上のカメラで写真を撮ってほしいそうで、私が依頼を引き受けることになったのです。

今日、昼間にカメラ屋に行く予定があり、それから帰った午後3時に工学部に伺いました。
依頼者は二人で、それぞれから今回の依頼の詳細を説明してもらいました。
それによると、現在二人はコンペに提出する、広告の製作課題に取り組んでいて、キリンビールの無濾過ビールを宣伝する内容なのですが、一人はビールを飲んだときの笑顔をイメージして、数十人の笑顔をランダムに並べたデザインに、もう一人の方は無濾過の純粋さを強調するために、新生児や赤ちゃんの写真を使ったデザインにしたいと考えているそうで、その素材の写真を撮ってほしいとのことでした。
報酬はとりあえずありませんが、コンペに提出する際に、フォトグラファーとして私の名前を併記してくれるそうです。
そんなわけで、早速依頼者と三人で撮影に出かけることになりました。
まずは、病院の新生児室の写真を撮るために、琉球大学附属病院に向かいました。
聞けば、アポは取っていないそうで、最近のプライバシー保護の傾向では、撮影はできないかなと思ったのですが、産婦人科の受付で頼んでみたらところ、予想外に撮影許可が下りました。(゜o゜;
産婦人科の奥にNICUがあり、白衣を着てから、そこの新生児を撮りました。
本当に生まれたてという感じで、小さな小さな身体がベッドで眠っている姿は実に可愛いかったです。写真を撮っていると、まるで自分がバパになったような気になり、なんだか嬉しくなってしまいました。
あと十年くらいしたら、またこういうところに来れるかななどと思いつつ、病院を後にして、次の撮影地の那覇に向かいました。

続いては、牧志公設市場周辺で街角の人々の笑顔を撮影します。目標は五十人!ポートレートに強いといわれる琉球大学写真クラブの面目躍如です。
桜坂劇場前から歩き、市場通り、公設市場、平和通り、むつみ橋通りなどを回って、写真を撮りました。ポートレートで一番大変なのが、モデルになってくれる人を探すことなのですが、今回は依頼者の二人が片っ端から声をかけて、半ば無理矢理、笑顔の写真を撮らせてほしいと頼んでくれるので、私はほとんど撮ることだけに集中できました。交渉で役に立ったのが、琉球大学写真部の肩書で、そう告げれば大体の人が納得してくれました。(沖縄県内での琉球大ブランドの力は強力です)
最初は恥ずかしがって断っていた人も、いざカメラを向けると笑ってくれて、ここでも予想外に順調に撮影できました。特に市場のおばちゃんたちは、いろんな苦労を乗り越えてきたからこそ出るような、いい笑顔をしてくれました。
それにしても、人の笑顔を集めるのってすごく楽しいですね。確認のために写真を見ていたら、ずらりと並んだ笑顔で、これまでの悩みとか悲しみとかが吹き飛んでしまいそうでした。
結局、一時間半ほどの撮影で、目標の五十人の老若男女の笑顔を撮れました。市場周辺の皆様に感謝です。

最後に、もう一つ赤ちゃんの写真を撮るために、事前にアポをとっていた、依頼者の先輩(赤ちゃんのお母さん)の家に行きました。
家に着くと、既に赤ちゃんをスタンバイしてくれていたので、早速撮影を始めました。
途中、赤ちゃんがおしっこをもらしたりもしましたが、ピュアな感じを収めることができました。

かくして、撮影の行程を全て無事に終え、大学に戻って写真のデータを渡して、今回の依頼が完了しました。
内容を依頼者と確認しましたが、満足だと言ってくれました。
今回は、私にとっても貴重な経験になり、撮影を楽しむことができました。特に笑顔のポートレートは、今後も挑戦してみたいです。(^^)

言葉が喋れること。

2007年01月17日 02時45分39秒 | うちなー日記(沖縄編)
意外に忘れがちなことなのですが、言葉が普通に喋れることって、素晴らしいことだと思います。
こんなことを書くのは、私自身、ほんの少し前まで言葉を喋るのに苦労していたからです。

私は幼少のころ、難聴だったそうでして、鼻の蓄膿の傾向もあり、よく耳鼻科に通っていました。
難聴のせいか、幼いころから、「さ行」と「た行」の発音に難がありました。正確にいえば、「し、す、ち、つ」の発音がうまくできなかったのです。濁点がついた「じ、ず、ぢ、づ」も、「しゃ、しゅ、しょ、ちゃ、ちゅ、ちょ」も言えませんでした。無理矢理発音すれば、出ることはでるのですが、鼻から出るような、ふがふがした感じになってしまうのでした。
そんな状態が、ほんの四、五年前まで続いたのです。
小学校低学年の頃は、そのことをよくからかわれました。
「さんすうって言ってみろよ」
と言われ、言われるがままに答えると、
「さんふうやってぇー」
と笑われるような始末・・。
まだ当時は自らの発音が誤っていることに気付いておらず、何故からかわれるのか理解できませんでした。
おまけに当時は吃り癖もあり、人に自分の言っていることを理解してもらいたいがために、早口になり、吃りも出て、余計に理解してもらえないという状況でした。
しかし、何故だか音読はうまいと評判で、小学二年生の学芸会の劇ではもっとも重要な役どころである、「天の声」に抜擢されたりしました。
(鼻の通りが良いときは、それなりに発音できていたようです)
その後、小学校の高学年になってくると、委員の仕事を割り当てられるのですが、私はこともあろうに、放送委員をしていました。しかも、六年生のときには、委員長まで務めたのです。
ですが、私の仕事の中心は、ミキサー(機械担当)でした。はじめの頃は、朝の放送や、下校の放送の声を担当していたのですが、早口と、発音の誤りを周囲から指摘されて、次第に自信を無くし、自ら声の担当を避けるようになったです。
中学一年生のとき、私は秋の校内作文発表会のクラス代表に抜擢され、全校生徒の前で作文(題名「中国旅行記」)を読むことになりました。
発表することが決まってから、私は自分の発音が心配になり、しばらく病院の言語外来という所に通い、トレーニングをしました。そこでようやく、私のさ行とた行の発音が誤っていたことを知ったのです。
結局、本番までに予定のカリキュラムはこなせなかったものの、発表は無事に終わり、校内での私の評価は上がりました。
そして、その評価で調子に乗ったのか、私は翌年度前期の生徒会役員選挙に立候補し、立会演説会などを完璧にこなして(このときの演説も話題になり、その年の年度総括誌「わかぎ」の校長先生による巻頭言に内容が引用されたりしました)、一年生で唯一(就任は年度末の二月から)の役員(書記)に当選しました。
ここまでは、なんだかんだありましたが、まあ順調にやってきたのです。
ところがです、その直後、私の鼻をへし折る出来事が起きたのです。
それは、三年生を送別する会でのことでした。私は後半の司会を担当していて、会の終わりに退場する際に、「二年生女子(最初に退場する)起立!」と言ったのです。
しかし、皆怪訝そうな顔をするだけで、一向に立たないのです。何度か繰り返したのですが、結果は同じでした。結局、異変に気付いた先生が代わりに指示して、どうにか場は収まりました。
後から聞いたのですが、そのとき、私の発音がおかしく、「女子」が「よひ」みたいな感じになっていて、理解できなかったらしいのです。
このこと以来、私はすっかり自分の発音に自信を無くし、むしろトラウマになり、その後一切の司会の仕事を断り、代役を頼んで、任期満了まで過ごしました。
この一度の事件が尾を引き、発音を気にする余り、余計に変な発音が身についてしまい、ついには日常生活でも「さ行」と「た行」が付く言葉を極端に避けるようになりました。
例えば、家族でスーパーに行った際、フードコートでかき氷の宇治金時を注文してこいと頼まれたのに、宇治の「じ」が嫌で、金時を注文してしまったりとか、ビデオ店の会員カードの更新で、生年月日を聞かれた際にも、8月14日と答えるところ、「ち」と「じゅ」が言えないがために、答えられず、しかたなく紙に書いて答えたりとかで、今となっては笑い話のように思えますが、当時はどうしようもなく悩んだものでした。
しまいには、自分の名前「つつみもとすけ」に「つ」と「す」が入っていることにさえ恨みを持つようになり、自己紹介で自分の名前が言えなかったときには、情けなくて涙が出ました。
私にとってのどん底は、中学二年から三年生にかけて続きました。
言葉のほんの何文字かがうまく発音できないだけで、それほど困っていたのです。

転機は、高校受験でした。志望校の試験に面接が含まれていて、さすがに逃げ出すことが出来なくなったのです。
対策のため、再び言語外来に通うことを決心したのです。もっと早くに行くべきだったのですが、また一時良くなるだけの結果になるかもしれないという考えが浮かび、躊躇していたのでした。
言語外来に再診すると、前回と同じ先生が優しく出迎えてくれました。
今度は、もう後がないので、真面目にトレーニングをこなしました。一から発音を勉強し直すことから始め、会話が出来る程度になるまで根気よく続けました。
中学三年生の約半年を費やして、ようやくさ行とた行の発音を会得しました。が、まだまだぎこちない感じで、日常の会話で自然に話せるレベルになるのに、さらに一年がかかり、高校一年生の秋頃から、ようやく自信を持って会話が出来るようになったわけです。
それからは、とにかくよく喋るようになり、今では自慢のうんちく話も好きなだけ話せます。時にはうるさがられるほど会話ができます。
やっぱり、言葉が普通に喋れるって素晴らしいことだと、昔を思い出す度にひしひしと感じます。

そんなことをふと書きたくなった冬の夜更けです。