うちなー→えぞ日記 (もとすけのつぶやき)

奈良県出身、沖縄での学生生活を経て、北海道ライフを堪能する、
とある研究者の日常のよしなしごとの紹介。

ネストリウス派とタンパク質な一日

2010年01月30日 12時36分20秒 | えぞ日記(北海道編)・・その他
昨日から、集中開講の「スラブ・ユーラシア学」という講義を受講しています。
西アジアにおける、宗教と人々、帝国の関わりを複数の講師が様々な分野から解説し、最終的に受講者を含めて討論するという内容です。
北海道大学スラブ研究センターの主催で、もろに文系の講義なため、授業登録の際に我が研究室の教授も目を丸くしておられました。

私は社会科が大好きで、小中高通して、社会科科目の成績はクラスで一番でした。
普通に考えたら、大学もそちら方面に進むのが無難だったのでしょうが、何故か勢いで生物学学者を志し、今に至ります。
(もちろん生物も大好きですよ!)
よって、今でもついついそういった系統の講義を受けたくなるのです。

で、そのスラブ・ユーラシア学なのですが、昨日は2つの内容を扱いました。「東方地域のキリスト教諸派の隆盛」と「ロシア帝国下のイスラム教」といった内容です。
「東方地域の・・」では特に、ネストリウス派東シリア(アッシリア東方)教会とコプト(エジプト)教会に絞って、古代から現代までの隆盛の解説がされました。
ネストリウス派は、431年のエフェソス公会議で異端と判じられたという話は、世界史で習いました。しかし、その後ネストリウス派がどうなったかについては私は知りませんでした。昨日の講義の内容を以下に簡単に記します。
ローマ帝国下では異端だったネストリウス派ですが、その後中東にイスラム帝国が興ると、事態が一変します。イスラム教は、他宗教に寛容で、街中で堂々と布教したり、ムスリムを改宗させたりしない限りは宗教活動を自由に行えました。ネストリウス派も、ウマル1世やアリーの公認を受け、宗派を存続していましたが、それに留まらず、なんと政府の重要な役職にもついていたのです。外交使節としてや、学者、侍医としてなど、なかなかの活躍ぶりでした。
そして、同じ地域に今度はモンゴル帝国が勢力を延ばしてきて、イル=ハン国という国を作りました。実はネストリウス派は唐の初期に東アジア方面に積極的に布教に出ており(唐名:景教)、モンゴルにも伝わっていました。イル=ハン国を建てたフラグ=ハンの母もネストリウス派キリスト教徒であり、征服する際には教会に閉じこもった人々を助命しています。イル=ハン国でも、ネストリウス派は王の庇護を受け、隆盛を誇りました。勢いに乗り、モスクの敷地内に教会を建てたりもしました。
ただ、当然ながら国民の大半を占めるムスリムからは、強い反発を買っており、第7代ハンのガザン=ハンのイスラム教改宗を契機に、ネストリウス派は一気に衰退の道を辿ります。
その後、残りの一部がローマ・カトリック教会と和解し、カルデア教会を作るなどがありましたが、現在は東シリアを中心に100万人ほどの信徒がいるだけだそうです。
コプト教会やロシア・ムスリムの話は長くなるので、割愛しますが、これらの宗教と帝国の関係で共通しているのは、帝国が彼等マイノリティの宗教に、一定の権利を与えていたこと、そして宗教側も、うまく帝国の支配者側と手を結び、したたかに活動を続けていたことでした。ロシア帝国は、ムスリムにイスラム法による民事裁判権まで与えていたそうです。帝国は巨大になればなるほど、その運営に苦労するため、地域の宗教を上手に利用したのでしょう。
講義後の討論でも、「帝国というフレキシブルな体制」というキーワードが出てきました。
普段の、研究生活では絶対に出会うことのない世界史の裏側の話は、良い刺激になりますね。

そんな集中講義を受けた後、研究室に戻ると、修士課程二年次と学部四年次による卒業研究発表会の公式練習が行われていました。未知のタンパク質の構造解析とか、抗菌ペプチドの効率的な培養法とか、こちらも面白い内容ばかりでしたが、いきなりネストリウス派からタンパク質の話に変わったので、頭のスイッチを切り替えるのが大変でしたよ・・。

集中講義は、来週月曜日と火曜日の残り二日ありますが、どんな話が聞けるのか、非常に楽しみです。