「人生はゲームだ」という言葉がある。別にふざけているわけではない。だが私に特別格言があるわけでもない。
ゲームとゲームではないものなどほんの僅かだ。テレビゲームは重要な選択肢の前にセーブできてどちらが正しいか確認できるし、ボス戦で全滅したらリセットすれば良い。
しかし現実はセーブもリセットもできない。選択肢を間違えてもやり直せないし、大金を掛けて負ければ金は戻って来ないし、死ねば人生は終わる。違いはそれだけなのだ。
球技や格闘技などの試合を「ゲーム」と呼ぶし、賭博も「ゲーム」だ。現実の「ゲーム」であれば負けてもリセットできない。「現実のゲーム」だからだ。
※暇空茜は表現の自由戦士ではない。自ら否定している。
暇祖茜のツイートから拾った記事の続きだ。
政治を堅苦しく考えずゲームと捉えて良いのだ。不正な補助金の流れに対して、住民監査請求や住民訴訟を起こすのは民主主義国家の国民として誉められて良い。
不正がなかったり、仮にあったとしても裁判で負ければそのあと待っているものは考えたくないが。いや住民監査請求や住民訴訟だけなら負けても大して痛くはない。暇空茜はColabo(代表仁藤夢乃)から名誉毀損の民事訴訟を起こされている。それで負けると大変なのだ。
住民監査請求や住民訴訟をゲームとして捉えて一般国民ももっと起こしたいものだが、暇空茜のように時間も金もある国民でないとできない。又聞きだが暇空茜は「ぼっち」だからできると言っているそうだ。家族がいると脅迫などされてとてもできないらしい。
仮に暇空茜が裁判で負けても彼の同調者が都庁を占拠したらり、国会を襲撃したりするだろうか。
だが心配のしすぎではないか
「だが心配のしすぎではないか」という朝日新聞の言葉も2005年のものだ。もう18年前になる。時間が経つのは早いものだ。
貧困など問題を抱える若年女性を救うということは全く正しい。しかし正しい大義名分を掲げていれば何をしても良いわけではないのだ。補助金を受け取っておきながらほとんど仕事をしていなければそれは不正というしかない。
それが明らかになるのは都の再調査や裁判次第だが、どうにも大きな問題に思える。
村木厚子がラスボスで補助金還流の仕組みを作ったかは正直わからない。暇空茜のツイートやnoteを全部読むのは大変で読んでいないし、私には認識できなかったからだ。
外野は暇空茜にカンパして助力することはできる。暇空茜には弁護団もいるようだ。だが最終的には裁判の結果を待つしかない。不正を糺すことは決して悪いことではない。裁判で負ければ道化扱いされてしまうだろうが。まさに「ゲーム」だ。
ゲームとゲームではないものなどほんの僅かだ。テレビゲームは重要な選択肢の前にセーブできてどちらが正しいか確認できるし、ボス戦で全滅したらリセットすれば良い。
しかし現実はセーブもリセットもできない。選択肢を間違えてもやり直せないし、大金を掛けて負ければ金は戻って来ないし、死ねば人生は終わる。違いはそれだけなのだ。
球技や格闘技などの試合を「ゲーム」と呼ぶし、賭博も「ゲーム」だ。現実の「ゲーム」であれば負けてもリセットできない。「現実のゲーム」だからだ。
~~引用ここから~~
藤田直哉のネット方面見聞録
ネットはいまや、現実の社会や政治に影響を及ぼしています。私たちに重大な意味を持つネット上の現象を中心に、文芸評論家の藤田直哉さんが論評する連載です。
虐待や性被害などに遭った女性を支援する一般社団法人Colaboが、暇空茜(ひまそらあかね)というハンドルネームの人物によってネット上で攻撃を扇動されている。この事件は、現代日本における「ゲーム的政治」の大きな分水嶺(ぶんすいれい)になるかもしれない。
暇空は、Colaboの東京都からの委託事業などについて、「補助金の不正受給、生活保護不正受給、未成年誘拐あたりは普通に問題」と、YouTubeなどで拡散した。それを信じた多くの人々が、ネット上で非難を繰り広げている。背景には、「萌(も)え」的なイラストが性差別や性搾取を助長するのではないかと問題提起してきたフェミニストたちと、それに反発する「“表現の自由”戦士」と呼ばれる人たちの対立がある。
Colabo側は昨年11月、デマや誹謗(ひぼう)中傷を繰り返したとして損害賠償を求め暇空を提訴。一方、暇空による住民監査請求は昨年末、都監査委員によってほとんどの指摘が「妥当でない」と結論が出た。ただし、一部の精算には「不当な点がある」として都に再調査を勧告した。どちらの言い分が100%正しいとも言い切れないようだ。
注目すべきは、暇空らのゲー…(以下有料)
~~引用ここまで~~
※暇空茜は表現の自由戦士ではない。自ら否定している。
暇祖茜のツイートから拾った記事の続きだ。
政治を堅苦しく考えずゲームと捉えて良いのだ。不正な補助金の流れに対して、住民監査請求や住民訴訟を起こすのは民主主義国家の国民として誉められて良い。
不正がなかったり、仮にあったとしても裁判で負ければそのあと待っているものは考えたくないが。いや住民監査請求や住民訴訟だけなら負けても大して痛くはない。暇空茜はColabo(代表仁藤夢乃)から名誉毀損の民事訴訟を起こされている。それで負けると大変なのだ。
住民監査請求や住民訴訟をゲームとして捉えて一般国民ももっと起こしたいものだが、暇空茜のように時間も金もある国民でないとできない。又聞きだが暇空茜は「ぼっち」だからできると言っているそうだ。家族がいると脅迫などされてとてもできないらしい。
仮に暇空茜が裁判で負けても彼の同調者が都庁を占拠したらり、国会を襲撃したりするだろうか。
だが心配のしすぎではないか
「だが心配のしすぎではないか」という朝日新聞の言葉も2005年のものだ。もう18年前になる。時間が経つのは早いものだ。
貧困など問題を抱える若年女性を救うということは全く正しい。しかし正しい大義名分を掲げていれば何をしても良いわけではないのだ。補助金を受け取っておきながらほとんど仕事をしていなければそれは不正というしかない。
それが明らかになるのは都の再調査や裁判次第だが、どうにも大きな問題に思える。
村木厚子がラスボスで補助金還流の仕組みを作ったかは正直わからない。暇空茜のツイートやnoteを全部読むのは大変で読んでいないし、私には認識できなかったからだ。
外野は暇空茜にカンパして助力することはできる。暇空茜には弁護団もいるようだ。だが最終的には裁判の結果を待つしかない。不正を糺すことは決して悪いことではない。裁判で負ければ道化扱いされてしまうだろうが。まさに「ゲーム」だ。
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