~~引用ここから~~
学校のパソコン「1人1台」へ 経済対策に予算盛り込み 高橋末菜 2019年11月19日(朝日新聞)
西村康稔経済再生相は19日の閣議後会見で、学校で児童・生徒が1人1台のパソコンを使える環境を整えるための予算を、とりまとめ中の経済対策に盛り込むと明らかにした。ICT(情報通信技術)の教育機会について地域間格差を是正したり、国際競争力を強化したりする狙いという。
西村氏は「配るだけでは活用が進まない」と述べ、外部人材を含めた教員の確保も検討するとした。今月13日の経済財政諮問会議で、民間委員の竹森俊平慶応大教授が学校でのICTを通じた人材育成について提言した。これに、安倍晋三首相が「パソコンが1人当たり1台となることが当然だということを、国家意思として明確に示すことが重要」と意欲を示していた。
政府は2022年度までに「児童生徒3人に対して1台」をめざし、年間約1800億円を地方自治体に補助するなどしているが、現状は平均5・4人に1台にとどまる。佐賀県の2人に1台に対して愛知県は7・5人に1台など、自治体間格差も大きい。麻生太郎財務相は「自治体の理解を得ないとどうにもならない。10年前に電子黒板の普及を図ったが、ほとんど使われていない」と指摘した。(高橋末菜)
~~引用ここまで~~
政府は小学生、中学生に1人1台のパソコンを与え、情報通信技術の教育機会を与えたいということだが、小学生、中学生の教育にパソコンは必要なのか。
私が小学生、中学生だった時代ははるか昔のことで参考にならないかもしれない。しかしあの時代にパソコンがあれば教師が授業でパソコンを使って子供の学力向上に資したとは考えられないのだ。
普通の「国語」や「算数」の授業では先生が教科書を読み、板書をする。小学生も教科書を読み(音読、黙読)、板書をノートに書く。算数であれば計算する。教科書とノートだけで十分だ。パソコンの出る幕はない。
「理科」の実験、「社会」で社会見学、「英語」で聞く、話すがあってもパソコンが必要とは思えない。パソコンを使えば小学生、中学生の学力が向上する場面を想像できない。私の想像力が貧困なせいもあるかもしれないが。
教科書をデジタル化する意味はない。ノートを書かなければ頭に入らない。パソコンを使う場面は想像できない。
独学でやるならパソコンは大いに役に立つだろうが、大勢で一緒に授業を受ける際に役に立つだろうか。
高校でもパソコンを使って授業を聞いた記憶はない。英語のリスニングの授業でAV機器を使った記憶はあるが、それだけだ。
大学ではなぜかドイツ語(第二外国語)の授業でパソコンを使った。担当講師がそういう人だったのだ。他はシラバスの入力とレポートの提出にはパソコンを使った。パソコンがなければ大変不便だったろうが、「授業では」パソコンを使うことはなかった。講師の説明を聞くだけだ。私の大学では板書もあまりなかった。
1人1台パソコンを用意することが学力向上に資するとは思えないのだ。無駄としか思えない。現場を知らない空理空論に思える。
それにデスクトップ型のパソコンは1人1台用意しても置く場所がない。そうなればノート型かタブレット型になるが、家に持ち帰れるようにすると必ず忘れる者が出てくる。そうなれば授業にならない。置き勉すると充電はどうするのだ。電源が児童・生徒の数だけあるわけではあるまい。
またパソコンは日進月歩で進歩しているので、すぐ陳腐化する。新しいパソコンを3~5年で買い換えねばならない。メンテナンスの費用、人材も必要だ。
インターネットには繋ぐのか繋がないのか。ネットに繋げば一気にパソコンは愉しくなるが、アダルトサイトには繋げないようフィルターを掛けねばなるまい。中学生くらいなら問題はないだろうが、そこは教育的配慮というものだ。
中学校の「技術家庭」の「技術」で「ワード」と「エクセル」を修めればそれで十分ではないか。ノコギリの使い方やはんだ付けを習うより義務教育で「ワード」と「エクセル」が使えるようになれば社会人になっても役に立つ。大学や専門学校ではさらに進んだものを教えれば良い。まあノコギリの使い方やはんだ付けなども意味があったのかもしれないが。
「技術」は週ヒトコマしかなかったので、3年間で「ワード」と「エクセル」を習いきれるか少し心配でもあるが。さりとて「国語」や「数学」の授業を減らしては本末転倒だ。それならば小学5年生からパソコンを使わせれば時間は十分かもしれない。
小学生、中学生に1人1台パソコンを用意することが人材育成に資するとは思えない。考え直すべきだ。
学校のパソコン「1人1台」へ 経済対策に予算盛り込み 高橋末菜 2019年11月19日(朝日新聞)
西村康稔経済再生相は19日の閣議後会見で、学校で児童・生徒が1人1台のパソコンを使える環境を整えるための予算を、とりまとめ中の経済対策に盛り込むと明らかにした。ICT(情報通信技術)の教育機会について地域間格差を是正したり、国際競争力を強化したりする狙いという。
西村氏は「配るだけでは活用が進まない」と述べ、外部人材を含めた教員の確保も検討するとした。今月13日の経済財政諮問会議で、民間委員の竹森俊平慶応大教授が学校でのICTを通じた人材育成について提言した。これに、安倍晋三首相が「パソコンが1人当たり1台となることが当然だということを、国家意思として明確に示すことが重要」と意欲を示していた。
政府は2022年度までに「児童生徒3人に対して1台」をめざし、年間約1800億円を地方自治体に補助するなどしているが、現状は平均5・4人に1台にとどまる。佐賀県の2人に1台に対して愛知県は7・5人に1台など、自治体間格差も大きい。麻生太郎財務相は「自治体の理解を得ないとどうにもならない。10年前に電子黒板の普及を図ったが、ほとんど使われていない」と指摘した。(高橋末菜)
~~引用ここまで~~
政府は小学生、中学生に1人1台のパソコンを与え、情報通信技術の教育機会を与えたいということだが、小学生、中学生の教育にパソコンは必要なのか。
私が小学生、中学生だった時代ははるか昔のことで参考にならないかもしれない。しかしあの時代にパソコンがあれば教師が授業でパソコンを使って子供の学力向上に資したとは考えられないのだ。
普通の「国語」や「算数」の授業では先生が教科書を読み、板書をする。小学生も教科書を読み(音読、黙読)、板書をノートに書く。算数であれば計算する。教科書とノートだけで十分だ。パソコンの出る幕はない。
「理科」の実験、「社会」で社会見学、「英語」で聞く、話すがあってもパソコンが必要とは思えない。パソコンを使えば小学生、中学生の学力が向上する場面を想像できない。私の想像力が貧困なせいもあるかもしれないが。
教科書をデジタル化する意味はない。ノートを書かなければ頭に入らない。パソコンを使う場面は想像できない。
独学でやるならパソコンは大いに役に立つだろうが、大勢で一緒に授業を受ける際に役に立つだろうか。
高校でもパソコンを使って授業を聞いた記憶はない。英語のリスニングの授業でAV機器を使った記憶はあるが、それだけだ。
大学ではなぜかドイツ語(第二外国語)の授業でパソコンを使った。担当講師がそういう人だったのだ。他はシラバスの入力とレポートの提出にはパソコンを使った。パソコンがなければ大変不便だったろうが、「授業では」パソコンを使うことはなかった。講師の説明を聞くだけだ。私の大学では板書もあまりなかった。
1人1台パソコンを用意することが学力向上に資するとは思えないのだ。無駄としか思えない。現場を知らない空理空論に思える。
それにデスクトップ型のパソコンは1人1台用意しても置く場所がない。そうなればノート型かタブレット型になるが、家に持ち帰れるようにすると必ず忘れる者が出てくる。そうなれば授業にならない。置き勉すると充電はどうするのだ。電源が児童・生徒の数だけあるわけではあるまい。
またパソコンは日進月歩で進歩しているので、すぐ陳腐化する。新しいパソコンを3~5年で買い換えねばならない。メンテナンスの費用、人材も必要だ。
インターネットには繋ぐのか繋がないのか。ネットに繋げば一気にパソコンは愉しくなるが、アダルトサイトには繋げないようフィルターを掛けねばなるまい。中学生くらいなら問題はないだろうが、そこは教育的配慮というものだ。
中学校の「技術家庭」の「技術」で「ワード」と「エクセル」を修めればそれで十分ではないか。ノコギリの使い方やはんだ付けを習うより義務教育で「ワード」と「エクセル」が使えるようになれば社会人になっても役に立つ。大学や専門学校ではさらに進んだものを教えれば良い。まあノコギリの使い方やはんだ付けなども意味があったのかもしれないが。
「技術」は週ヒトコマしかなかったので、3年間で「ワード」と「エクセル」を習いきれるか少し心配でもあるが。さりとて「国語」や「数学」の授業を減らしては本末転倒だ。それならば小学5年生からパソコンを使わせれば時間は十分かもしれない。
小学生、中学生に1人1台パソコンを用意することが人材育成に資するとは思えない。考え直すべきだ。
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