《単に切れて行く》
一番大切な事は、今、こうしておる事で、このまんまに自分を、「わたし」っというもんをね、立てとらなかったら、このまんまでいいのです。
それが分からんから立てるんですね。知ろうとか、何とか。 それは結局、煩悩、病いですね。
だから、どうか、今度お帰りになってもね、こう、店のそろばんを弾く時はそろばん、
草を抜く時は草、飯を食う時は飯というようにね、単に切れて行きさえしたらいいんだと、先ず第一それをお思いになって、覚えとくもどうもいらんから、それは必要ないですからね。
だから、あなたが一切、朝から晩まで、晩から朝までおやりになる事自体が禅である、
という根本にお立ちになってね、おやりにさえなれば大丈夫です。
だから、一番、「ははあ、敬宗君が、こういう事、言っとったが、これか」と、
納得をされる事は非常に駄目 ですからね。
《一切放下》
「何も考えずに、音に注意せい」言うんでしょう。「聞け」と言うんでしょう。
「聞け」と言うたら、いつでも念を立てとることですね。
その念を立てるから、いつまでたっても駄目です、それは。もう、何にもなしでいいの。
目は目、耳は耳、口は口。この業識を全部分散して、任しておりさえしたら、
いつも自分は性-生命の根源におるから、何でも入って来るんで、
偏って、そんな、「これにしなさい。あれにしなさい」って、一っ言もいりません。
決め所がないから、縁に従っていつでも入って行ける自分が明確なんですね、 ゼロだから。
それを一つのものに、何か音で、音でと言ったら、知らない間にそのことに行って、 ほかのことは、いつでもそれにじーっとくびりついている。そこでは駄目。
それは、やっぱり老師の言ったところの、「放てば即ち満てん」と、放し切ってしまうんです。そこでさえおれば、不安のようだけれども一番早いの。
その不安の、もう何にも持ち物もないゼロの状態でおりさえしたら、縁は待っているんだから、こちらがちゃんと、もうきれいに、きれいに、スッカラカンになるのを待ってるんだから。
だからどうか、そのことはそのことで、ありがたいと思っておいといて、
そしてどうかこれからですよ、一切を放下した状態におって下さい。
そうしたら早いんだから。みんなね、それができないから、みんな苦しむんだから。
何かに、なんかに自分をこう、くっつけておらないとおれない。
そこのとこが大切ですからね。だから、老師が一番初めお会いになって、
「何もそのままでおればいいじゃないか」と、おっしゃったこの一語は、もう本当にね、もうなんにもいらん、まっしぐらだということを教えて頂いた。
どうか一つね、その気持ちを忘れずに。ね、やって下さい。
《求心やむとき即ち無事》
求心やむとき即ち無事の人なりと。求めよう求めようと外へ向かって行くほど苦しみが増える。そうじゃなくて、回向返照をして、内へ内へと戻って来れば裸になるから、きれーいにもとの姿になりますよ、ということを老師がおっしゃっているんですね。
だからひとつ、そこのところが、これは大切ですから、何回お聞きになってもね、これ薬です。
じっと、こう、これと一つにさえなっておられたらね、もう確実にね、成る程、と言う所へ行きますから。慌てたらだめですよ。慌てず、ふためかず、ただ淡々として流れにしたがってさえおったら、いやでも落ちるんだから。皆、その流れを自分流に曲げて来るから落ちない。
老師はああ言うけれど、わしはやっぱりこうだ、こうだと言って、ぐるぐる同じ所を回転するんですね。そうじゃなくて、おっしゃった、それをお聞きになりながら、その通りに流れていらしたら、もういやでも落ちます。
《コツコツコツ》
分かるも分からんも、そういうようなことはね、常識の範囲ですね。
分かるとか分からんとかいうのはね。
そうじゃない。いやでもですよ、じゃ、こう(コツコツコツ打卓)、
これと同じになったとこは、どこですか。考えたら駄目ですよ。
(コツコツコツ)どこがこうなっているの、あなたと。で、止んだら何にも。
同じようなことをコンコンコン言うたって、それは真似でしょう。
じゃ、これと同一に、あなたのどこがなっとるんですか(コツコツ)。
これ聞いとると言ってますか。
じゃ、どこに(コツコツ)あるんですか、これ。(コツコツ打卓)こんな素晴らしいもの(パンパン打掌、コツコツ打卓)今、その通ーり、寸分違わずになるところはどこですか。
《どこが鳴っているのか》
ね、いやでも、あの音の通りになったでしょう。
今、コンチンカンと鳴ったら。聞く、知る、知らんということでなくて、
あの音の範囲のものは皆、あの音と一緒になっとるところがあるはずですね。
それはどこにあるんでしょうか。
じゃ、みんなに聞いたって、「あれは音。耳が聞いた」と皆言いますね。
じゃ、それは経験の上に立って言ってるんでしょうか、それとも何にも知らなくても、
この言葉だけの遊戯なんでしょうか。
あの通りになっとるでしょう。じゃ、今それを表現して、と言って、口で言ってて、
キンコンカン真似してるだけでしょう。あの音とは一緒でないですね。
じゃ、あの瞬間、瞬間に鳴っとる時に一つになってるのが間違いない本当の音ですよね。それはどこが鳴っとったんでしょう。-それに苦しんだんですよね、私も。
じゃ、生命の根源とは何か、ということ。じゃあ、こうなんぼどこに探したって、これ切ったら血が出てですよ、それ痛い。痛いですよね。ひょっと切ったら痛い。血が出てて、これ放っとったら、だんだん血が出て、息がストップしますよね。
それじゃ、そのストップするまでと言ったら、「はあっ、はあっ」言うだけでしょう。
で、どこがなくなって、どこが生まれとるんでしょうか。
そういうふうに、本当に自分を、いろんな習ったり知ったり覚えたりしたことを全部横に置いて、素っ裸の原因はどこだ、と追い詰めれば、必ずや真の自己に目覚めるはずです。共有してる、ありとあらゆるものが共有しておる生命の根源にぶつかる。
それは知ることではない。知情意のほかである。
《自分で自分を詮索しない》
どうか一つ、私はあなたにお願いすることはね、先ず、何かを知っても、そのままでいいから、もう自分が積んだ経験、それから色々なことがあっても一つも、それを一つも取ってのけようともせずに、ただ、今から、こう動かすものは何か、しゃべらすものは何か、その原因を追い詰めるんじゃないんですよ、一々の行動自体に乗っておりさえしたら、けつまづくんと同じでアラッというとこへ来ます、二年三年の内に。
あー老師が言ったのは、あーこういうことを思っちゃいかんと、あーこういう考えを持ったらいかんと、自分で自分を詮索しないことですね。
それをえり分ける自分が分かっていないのに、えり分けて明らかにしようとするのが人間の習性ですね。だから、そうじゃなくて、何も知らないのだから。
《ゼロの自分》
ゼロのね、自分が明確でないから、
どうしても何かにくっついたものからしか、出て来ない訳ですよね。
そのないものをいつでも今までの生活の経験から何かを引っ張り出して、
口でしゃべっているだけですね。
本当はスッカラカンのはずです。
だが何かを答えるのには、自分の経験の糸を引っ張り出して来ないと言えん訳ですよね。ゼロにおれない。
だからゼロになればなる程、基礎がきれいだから、
今までやって来たことが全部出て来るんですね、自由自在に。
だから、そういうことが、はっきりとして来るから、何も日常生活において、
自分をこぎ使う必要はない。
ゆったりした、本当にいらいらもしないし、と言って、うれしいこともないし。
いろんな表現が実に平凡になるんですね。それは根底が明確になるから。
根本が皆、明確でないから、色々な芝居をしとるだけですね。
だから、その根底を明確にするために、このわたしの今の話を聞いている訳ですよね。
作って行くんじゃないですね。
ゼロのあなたが持っていらっしゃるゼロの自分を明確にすることなんです。
捨てて、捨てて、何もかも捨てて、あなたの純粋性に帰りなさい、
そうすると永遠の喜びがありますよ、とこう言うのです。
理屈の方でね、追い詰めても、これはどんなにしてもだめです。
理屈は後で分かるから、そうじゃない何にもない自分をはっきりとつかむことです。
じゃあ、どこでつかむか。つかむという表現をするけど、
空気のようなものが空気のようなものを自覚するんですからね。
だからもうなんにもないんだから、始末が悪いんですね、本当を言うたら。
だが、そこへ何かの拍子で、ふっとなると、
それから先は、その人のやり方一つで、ね、ずーっと徹底、
もうきれいにこの端から、この入り口へ来たんだが、
ここまで行ってきれーいになんにもないゼロの人になる。
http://awarenessism.jp/archive/zen/aono-kenjyuu
※修証一如