われならぬ われをてらひて あかつきの 世をさまよへる あやまちの民
*週に一回はこれを書くよう、自分を戒めているので、やりましょう。相変わらず馬鹿の妨害を受けていて、言葉は浮かんで来ないのですが。
これは過去作からとってきました。このところ不調の中にも不調で、歌が全く詠めないので、新作は滞っているのです。毎日詠もうと頭をひねってみはするのですがね、表現力の翼をもがれているかのように、思考が全く前に進まない。なんとかひねり出しても、うまく決まらなくて、発表を控えるような歌くずばかりになってしまいます。
つらいですね。ここを何とか乗り切りたいものだが。
とにかく、表題の作の解説にいきましょう。自分ではない自分を衒って、この人類の新しい段階が始まる暁の世に、心さまよっている、誤った人たちがいる。テレビなどを見ていると、よくそういう人たちを見かけます。嘘で作った自分をこれでもかときれいに演出して、いい人間に見せかけている。でも目つきや表情から、痛々しい苦しみがしみだしている。
彼らも、こんな自分は嘘なのだと気づいているのだ。陰でやっていることがあまりに馬鹿だからだ。それに人間は解脱の段階を見て、次々と目覚め始めている。目覚めた人々の美しさを見て、過った人たちは焦りを感じている。だが、嘘で作った自分を捨てることも難しい。
嘘で作った幻の幸福が、今はまだ黄金の城のように大事なものに思えるのです。嘘で作った自分ではない自分が、天使のようにきれいに見えるのです。それは馬鹿みたいなものなのだが、迷っている人々にはとてもそうは思えないのだ。
その嘘の自分を作るために、陰で自分がどんな嫌なことをしているか、まったく知らないわけではない。そんな汚い自分が苦しくて、魂が矛盾の痛みに悲鳴を上げている。それをごまかすために、一層嘘にはまり込む。嘘がなければ自分には何もないと思い込んでいる。
何度も言っていることですが、馬鹿ですね。そんな嘘などまるっきり捨ててしまえば、新しい本当の自分と出会えるのに。それは何もかもをやってゆける、すばらしい自分自身なのに。
馬鹿な人たちは、嘘の中に浸りこんで、永遠にその中をぐるぐると回っているかのようです。いつまで経っても出てこない。