
からころも 着るうつせみの いつはりを などてまもりて われとかたるや
*今日も一年前のツイートからとりましょう。積み重ねが役に立つのはこんなときですね。やってもやっても何も反応がなく、甲斐なきことのように思えても、やらずにいられなかったからやってきたのだが、そういう積み重ねが、のちにいろいろと役に立ってきます。
ツイッターを初めてまだ一年余りですが、それはたくさんの歌を詠んできた。そのうちの一つから、今日もとりあげましょう。
「唐衣(からころも)」は「きる」や「たつ」「かへす」などにかかる枕詞ですね。基本的なものですから覚えている人もいるでしょう。ちなみに唐衣とは中国風の衣服のことです。普通枕詞は特に訳さなくてもよいが、この場合は意味が生きてきますね。
外国の服を着るように、うそを空蝉のように着込んで、なぜそれをかたくまもって、それが自分だと語るのか。
この場合の空蝉は枕詞ではなく、単純に蝉の抜け殻という意味です。空蝉の偽りとは、ぬけがらのような嘘という意味です。そんな嘘をいまだに着こんで、どうしてそれが自分だというのか。
みな、本当の自分が痛いのだ。だから、むなしい嘘をかぶって、それが自分だと思いたい。今の世の中、そういう人ばかりを見ます。わたしたちはたいてい家に閉じこもってもっぱら詩文など書いているが、たまに買い物などに出かけて世間を見ると、そういう嘘をかぶった人間ばかりを見る。みな、ほんとうの自分を生きていないのです。
そんな嘘の自分を生きていることが苦しくないのかと言えばそうではない。本当はとても苦しい。だからいつも彼らは他人ばかり見ている。他人も嘘をついていると思うと安心できるからだ。世間がそうならば自分がついている嘘にも安心できるのです。ですが時に、まさに正直な自分一本を生きているような人間に出会うことがある。
そうすれば人はまるで狂ったようにその人を攻撃し始めるのです。あまりにも、嘘で生きている自分がつらいからです。そういうことから、陰湿ないじめが生じる。いじめは学校だけで起こることではない。人は自分がついている嘘が痛いなどというものではないから、常にその痛さを攻撃性に燃やして、だれかを探しているのだ。
美しいものが憎い、という人間の底辺にこびりつく嫌な感情は、嘘をついて守っている自分の中の嫌な記憶から発している。なぜ嘘を守ってそれを自分だと言うのか。それは自分があまりにも愚かなことをしたからだ。全部否定してすっかりきれいな人間になりたいのに、それができないからなのだ。
何回も言ってきたことだが、なかなかに世間を変えることは難しい。人間は今も嘘を頑なに守っている。
しかし積み重ねは、これからもずっとやっていきましょう。