夢に見て あふひの下に あふひをぞ こひて月夜の こたへを待ちき
*「あふひ」は「葵」、フタバアオイの琴です。和歌では「逢ふ日」にかけられることが多いので、それにならってみた作品です。
こういうおもしろそうな掛詞を見つけたら、自分もぜひにやってみましょう。何事も積み重ねです。日本語というのは実におもしろいことができる。やればやるほど歌を詠むスキルが深まってきます。
夢に月とたとえられるあの人を見て、葵の下で会う日を請うて、その答えを待った。
これはある日の沙羅の締め歌の中の一つですね。毎日六首を一日の終わりに歌うというのをやっていますがその六首の一つです。これに続いて、こういう歌が続く。
まなざしの わづかにかげり いひよどむ 月のおもひの かなしかりけれ
まあ要するに断られたということです。夢の中でかのじょに会いたいと頼んでみたが、それを遠慮がちに断られたという形だ。
恋というのは難しい。なぜ断られたのか。夢の中で断ったのはたぶんかのじょではない。かのじょに化身した自分の心なのだ。
断られて当然なのだということを、自分は知っている。
かのじょを馬鹿にするために自分が何をしたのかを、自分は誰より知っているからです。
恋しても、近寄ることさえできない自分の弱さが痛かった。だから、陰からあらゆることをやって思い通りにしようとしたのだが、ことごとく通用しなかった。焦りに焦って、馬鹿を積み重ねて、とうとう恋する人を消してしまった。愚かな男たちの恋の結末はこれからも永遠に語り継がれていく。
なぜそこまで狂ったのか。たかが女と言いながら、それで一生を埋めるほどに馬鹿になったのはどうしてなのか。
嫌なことをすればすべては思い通りになると、人々が思い込んでいた時代だった。正義だの善だのというものは弱い、結局はいつも悪者が勝つのだと人間は思い込んでいた。だから女のひとりくらい軽くものにできるはずだと思っていた。
だが、金と数と知恵をたのんでやったことはすべて馬鹿になった。何もならなかった。女は死んだが、最後まで何も悪いことはせず、不幸にならないままいった。それですべてはおじゃんになった。
あれひとりを悪いことにすれば、みんなが助かるはずだったのに。悪いことにならないままに死なれたら、もう自分たちが馬鹿になるしかなかったのです。
愚かなどというものではない。
結局、何もしてこなかったからそうなったのだ。究極の時代に出会った、本当に愛する人の前に、何もしてこなかった男は何もできなかった。思い通りにしたいなどと考えるのは猿と同じだ。そんな男が恋の相手になるはずがない。
月に恋してよいのは、あふれる思いを歌に詠んで捧げることができるくらいの、高いものでなくてはだめです。
くりかへし 消えては結ぶ 白露の ねがひくるしき あがこひと知る 揺之