あやまちて あらためもせず 流れきて もとむるものは けがれなきわれ
*これは、ツイッターで発表したとき、後ろから二番目の七が、「馬鹿のもとむる」になっていましたが、ここでは「もとむるものは」に変えてみました。他に、「嘘でいつはる」とかにもしようと思ったのですが、仲間がこっちのほうがいいと言ったので、これにしました。
あやまちてあらためざる、これをあやまちという、とは論語の言葉ですが、世の中には過ちて改めない人がよほどたくさんいます。自分の過ちを認めて、人に謝って償っていくということが、できないというか、したくないのです。そんなことをすれば人に馬鹿にされるし、自分のプライドを痛く折らなければならないからです。
だから馬鹿な人は自分の過ちをそのまま放っておいて、悪いのは世間の方なのだともうそぶいて、嘘とごまかしで自分を生きさせようとする。要するに逃げるのです。あやまちた自分というものがいやでたまらず、そこから逃げて、他人から自分を盗んで、まったく違う別の自分になろうとする。
どんな自分になろうとするかというと、それは悪いことなどしたことのない、穢れのない自分なのだ。悪いことばかりして、ずるいことばかりして、自分を無理やり変えて、なりたいものは、ただ善良な正しい自分というものなのだ。
言われて当然のことだが、馬鹿ですね。本当に陰りのない美しく正しい自分になりたいのなら、しっかりと自分のあやまちをあらためて、人にも神にも謝り、自分をやり直していくことが正しい道なのだが、馬鹿な人はそれを嫌がって、悪いやり方で、穢れのない美しい人に化けようとする。
あやまちた自分を認めるのが嫌なばかりに、神に逆らって嫌なことばかりした挙句、最終的になりたかったものといえば、神に愛される正しい人というものだったのです。馬鹿な人は、馬鹿なことをしてあやまちた自分というものがつらくてしょうがないのだ。できるなら、まだそんなことなど何もしたことがない自分に戻りたいと思っている。
でもそんなことなどできるはずがない。自分の過ちから逃げている限り、馬鹿は際限のない苦悶の闇をさまよい続ける。たとえ嘘でよい人間に化けていても、その罪の影は背中のこぶのように自分に永遠に張り付いてくる。
すべての罪を自分のものと認めて、やり直さない限り、馬鹿は永遠にその矛盾に苦しむのです。