草の陰 死にしほたるの 孤独かな 夢詩香
*虫の死骸というものは、まるで砂粒かほこりのようなものだ。いつの間にか世界に溶けている。むごたらしい死に方をしても、それほど悲惨ではない。なぜならすべては神がやってくださっているからです。
相変わらず季節を無視しています。蛍はたぶん夏の季語でしょうね。調べていませんが。
孤独と言いますが、ほたるは孤独など感じません。まだ意識が発達していないからです。だから草の陰でたった一匹で死んでいても、それほど苦しくはない。いつでも神の中にいるようなものだからです。
だが人間のように魂が大きくなると、いつまでも神の中にいることはできない。神を愛しつつも、自分が神とは全く違うものであることがわかっている。たくさんのことを、自分でやらなければならない。
神のそばにいて、神の愛の陰にいれば、あまり孤独など感じないが、あまりにも神と離れすぎてしまうと、人間はとてつもない寂しさを感じ始める。その寂しさがつらくて、他の人間をだまして無理矢理自分のところにつれてきたりすることもある。
なんでこんなに遠くに来てしまったのかと、考えたくないばかりに、ただ自分が正しいことにするために、あらゆる言い訳をし始めると、魔が生じる。
そこに苛立たしい馬鹿が生え群がる。
たくさんの馬鹿な人間が周りにいるが、孤独は癒えはしない。なぜならそのものは、みんなをだましているからです。だから絶対に心を開くことはできない。開けば嘘がみんなばれてしまう。
心の中に嘘を守っている者は、いつも孤独だ。王のような偉い存在になって、国民に税金を払わせて、豪勢な暮らしをしていても、誰もいない。愛が何もない。
そしてそういう者はいつも、流れ流され、不思議に草の陰のようなところに吸い込まれ、そこで孤独に死んでいくのです。
孤独という鉛を噛みながら、自分を虐待している自分の仕打ちを心のどこかでわかっていながら、自分のやったことをすべてなんでもないことにするために、死に溶けていく。死ねばいいのではない。責任は残っているのだから、死んでも逃げられはしない。だが馬鹿は逃げる。
皆に迷惑をかけていることを無視しているから、馬鹿は死んでも寂しい。
誰も愛してはくれない。
草の陰のようなところで、愛に見放された骸が横たわっているのを、あなたがたはこれからよく見つけることでしょう。それは、愛を妬み、愛を馬鹿にして、とうとう愛に見捨てられた人間の姿なのです。
孤独の極致なのです。